[note36]進路指導って何だろう!?
進路指導って何だろう?
勤務校で突然、「進路指導部長」に任命された時、最初に感じたことが自分の経験ではまだまだ力不足…というものだった。あれから7年が経ち、自分は何をしてきただろう?高校3年生を卒業させた経験はわずか2回、学年主任や教科主任さえも未経験な自分が何を考えて進路と向き合ったのか、進路指導って何なのか…そんなことを考えることが最近、多くなった。改めて、noteに書いて整理しようと思ったのは教師として勤務する卒業生から「進路指導について教えて欲しい」という連絡が入ったからだ。彼には「自分の拙い経験で話せることなら!」と快諾したが、「果たして何を話せるのだろう…」そんなことを考えて今の立ち位置を整理してみたいと思った。
もしかしたら、進路指導に向き合っている若手の先生方にも少しは参考になることがあるかも知れない。非常勤講師時代を含めると教師になって、約20年になった。そんな中堅教師が思うことを少し聞いてもらえると嬉しい。また、同じように進路と向き合っている先生方と学び合うことができたら良いなと思っている。
進路って指導するもの?
今回、最初に考えたことが、この疑問。かつて担任を持っていた時は、大学受験に関する情報を集め、提供し、面談を通して、できる限り丁寧に進路に関してアドバイスすることを心掛けた。でも、その時、主体は生徒になっていただろうか?もちろん、生徒ベースで考えていたと思うけれど、自己満足に陥っていなかったか?「指導」という言葉には縦関係を感じる。指導する側、指導を受ける側といった感じだ。このことを全否定するものではないが、生徒と教師は縦(必ずしも教師➡生徒ではなく、生徒➡教師という形もあるかも知れない)であり、横であり、多様な関係の中で進路を探っていく必要がある。舞台に上がるのは生徒であり、教師は黒子である。
これは努力して学力をつけさせた先生、必死に生徒の進路を模索した先生を否定する意図は全くないが、今でも学校社会に存在すると感じる「私が〇〇に合格させた」という感覚が、どうにも馴染まない…
3年(中高一貫生は6年)経ったら、この場を出るんだよ!
生徒にはよく、こんなことを話す。
どんなに居心地が良くても必ず学校からは卒業する。その時に、自分の意思で進路を決めることができたか、指導に引っ張られすぎなかったか、ここが肝心だと思っている。もちろん背中を押す時、軌道修正をする時はあるけれど、そこにあるのは自分の人生ではない。あくまでも生徒が卒業後、何十年も生きていく世界がある。少し語弊があるが、そこに私達教師が責任を負うことはできないし負うべきではない。だからこそ、彼らが自分で決めることができるようなサポートは全力で行っていきたい。
気持ちは分からなくもない、でもそれは違う!
生徒は教師に正解を求めがちになる。それは学習指導だけでなく、進路指導の場面でも同様で受験校の選定や何を学ぶべきかetc相談は多岐にわたる。
しかし、繰り返しになるが、私たちは背中を押すことはできても、彼らの進路の決定権を持っているわけではない。なぜなら、人生における選択権は、当然彼らに所有権があるからだ。ましてや、不確実で正解の見えない社会において、私たちが正解を持っていると感じているならば、それは私たち自身が注意しなければならない感覚だ。「ある程度の予測可能性の社会を生きてきた経歴を持つ私たちには特に正解は分からない」と考えていくべきだ。
だからこそ、自らの人生の選択に対する不安は理解できるが、教師に正解を求めるスタンスは違うのだと感じる。もちろん、生徒と情報を共有し、自信のない生徒には背中を押し、根拠のない自信(それが重要なことも結構あるのも事実)で進路選択を進めている生徒には客観的なデータをもって、冷静な判断を求めることはできる。ただし、これは受験指導であり、進路指導というニュアンスとは少し違う気もしている。【受験指導=進路指導】という雰囲気が特に高等教育現場では存在するが、進路とはもっと広いものであるはずだ。
進路を考える原点となるもの
進路を考える原点となるのは、生徒達の「好き」「楽しい」「何だろう?」「なぜだろう?」という感覚であると思っている。そこから派生して、どのような世界をがあるのかを考えてみる。「好きなことを仕事にできることなどない」とかつては言われたこともあるが、今は「好きなことこそ、自分のキャリアの重要な部分と捉えるべき」と私自身は考えている。それらを、どこまで掘り下げることができるか、それが長期的な視点での進路サポートではないかと思っている(ここでは指導という言葉を使わずサポートという言葉を使ってみた。その方が何となくしっくりくる)
目指す進路サポートの形
進路(大学や高校受験、専門学校、就職など)において、目指すサポートの形は、その学内で意思が共有されていることが前提となる。しかし、それが実は最も難しいことなのかも知れない。それぞれの先生にも思いや教育観が存在するため、考え方が多様であることは当然であるし、否定するものではない。ただし、「進路サポートの先にあるものは何だろう?私たちはなぜ、彼らの進路をサポートするのだろう?」と考え、多様性を担保しながらも、目指す目的を共有しておくことは極めて重要だ。
現実的な問題として特に私立学校は進学実績という結果を求められる。それは現時点での1つの社会的ニーズであり、それを意味のないものとして切り捨てることはできない。ある研究会で「教師は評論家であってはならない」という言葉を聞いた。その言葉が意味するように、現代の受験を含めた将来の選択を「正しいか」「間違っているか」と議論することに、あまり意味はない。評論する以前に目の前には進路選択に向かう生徒がいるわけだから。
ある進路に進んだ時点で、既にその先の進路を考える必要が出てくる。
だからこそ、例えば高校の進路サポートにおいて偏差値の高い大学に進学すること「だけ」を目的にすると、その先で彼らが行き詰まる可能性がある。「だけ」と記したのは、彼らが高い目標を掲げて、学習に主体的に向き合うことは素晴らしいことだからだ。だからこそ、合格が全てのゴールであって欲しくはない。現代社会は変化を前提としているように感じる。私達教師も、生徒達も変化を否応なく求められる場面が来るかもしれない。そうした岐路に立った時、「どのように決めていくか?」「どのような選択の手段があるか」「自分は何を最優先したいのか」など結論ではなく、結論に至るプロセスについてのサポートをしていくことが肝心であると思っている。そこに様々な進路サポートの方法論が対応する形で取り入られるのが本来の在り方だと思う。「進路」に向き合うためには長期的かつ短期的な視点をもち、
全体像をデザインする必要がある。それは一人ではできるものではないし、校務分掌で「進路」担当に配属された教師だけで考えることでもない。全校的に生徒の「選択」をサポートするために、そして生徒の「幸福へのチャレンジ」という目標のために練り上げていくべきものであるというのが現時点の私の率直な感想になっている。
まとめ
書いてみたものの、当たり前のことの羅列になっているかもしれない。
だが、その当たり前が十分に遂行できていないという自分の中の焦りがあるのかもしれない。自戒を込めて進路指導主任・担任・進路担当が課題を一人で抱えないこと、仲間を作ること、議論の中で生まれた声を発信していくこと、共有していくこと…進路サポートのデザインはここから始めるべきなのだと思う。