志について


北方謙三の『三国志』を読み返している。
10月23日、50歳の誕生日を目の前にして、今、読み返すと五斗米道軍を率いていた張衛のダメさが自分と重なって感じられる。

曹操と真っ向から戦い、完膚なきまでに敗北した馬超は張衛のいる漢中にたどり着く。しばらくはここで力を蓄えろという張衛に対して、馬超は言う。
「……おまえは、五斗米道軍を率いて、天下に雄飛しようと考えていたのだろう、張衛。しかし教祖に締めつけられて、なにひとつ思っていることができはしなかった。その締めつけ方が、ころころと変わったように、俺には見えた。おまえは、頭の中では、実にいい戦略を持っていたのだが、実行は許されなかった」(九の巻 文庫版17p)

張衛はどうすべきだったのか。答えははっきりしている。外に一人で出て、個として自らの思いを実現しようとすべきだった。
自分もそうだ。結局、他人がつくった学校、組織に守られながら、「頭の中では、実にいい戦略を持っていた」だけだ。「実行を許されな」いという時点で、自らの自由を他人に手渡してしまっている。

その「戦略」、むしろ志と呼ぶしかないものを実現させたかったら、それに賭けなければならない。安定からは、さらに離れていくだろう。

でも、ぼろぼろになったとしても、判断ミスでしかなかったと他人に言われようとも、ほんとうに自分が納得してやっていることなら、本心から笑えるはずだ。そのときは、一緒に笑える仲間がいるはずだ。
外に出よ!

君の志は何だったのか?
今の勤務校だけのことだったのか?
いい授業をつくりたかったのではないのか?
人間から、生徒からも、教師からも生きる力を奪わない学校をつくりたかったのではないのか?
無償でそんな教育を受けられる学校をつくりたかったのではないのか?
教師が自らを犠牲にせず、十分な収入をも得て、不安なく職業を全うできる環境をつくりたかったのではないのか?

その志は間違っていない。それならば人生を賭けるに足る。
外に出よう。

「張衛には、無から出発し、手にしたもののすべてを賭けて闘ってきた、という厳しさがなかった。どこか甘いのだ。」

その甘さを捨て去るべき時が来たのだ。

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