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【書評】ニコ・ニコルソン『わたしのお婆ちゃん』(再掲)

(2018年6月の投稿を再掲します)

マンガ家、ニコ・ニコルソンの新刊『わたしのお婆ちゃん』。2013年の『ナガサレール イエタテール』は、東日本大震災の津波で流された実家を建て直すまでの体験エッセイでしたが、本作で描かれるのはその後。震災の影響もあって認知症が進んでしまった祖母との関係と、はじめて直面する介護がテーマになっています。

単行本を読み返して、これは「幼い頃、祖母が握ってくれた手を、大人になった孫が握り返すまでのお話」じゃないかと、あらためて感じました。

かつて守ってくれていた人が弱り、なにか別の存在へと変わっていくのを見るのは、誰にとってもつらいことです。「こうあってほしい」「こうあるはずだ」という長年のイメージとお別れし、妄想や徘徊などの現実を受け入れるには、人それぞれの時間がかかる。どんな状況でも自分を茶化さずにはいられない芸風はあいかわらずですが、このマンガから真っ先に伝わってきたのは著者が経験したその切なさ、悲しさ、驚き、恐れでした。

頭では「仕方ないこと」とわかっていても、心が追い付かない。関係が近ければ近いほど聞きたくない言葉は胸を抉るでしょうし、いろんな症状に振り回されてヘトヘトになることも多いと思う。そんな「アルツハイマーあるある」とでも言うべきあれこれやは、マンガ的デフォルメをいくぶん交えつつ、本書にもたくさん描かれています。

でも、じゃあ『わたしのお婆ちゃん』は救いのない作品なのかというと、必ずしもそうでもない。希望という言葉があてはまるかどうかは微妙ですが、少なくとも読み終えた後に残る感情は、重苦しいものではありませんでした。たぶんそれは、著者の分身である主人公が後半、戸惑いながらも「婆が見ている世界」を覗いてみようと模索しはじめるからじゃないかと思います。

認知症の人は、とりわけその初期段階においては、経験したことのない恐怖を味わっているそうです。昨日できていたことが、今日はできなくなる。さっきまでそこにあった記憶が、そこにあった気配だけを残して、忽然と消えてしまう。大好きな婆が見ている(かもしれない)そんな世界を孫なりに想像してみるようになったとき、「かつて握ってもらった手を握り返す」意味もまた浮かび上がってきます。たとえ婆が、家族の顔を忘れてしまったとしても、です。

もちろん、言うは易く行うは難し。仕事との両立や介護の費用というリアルな問題もあります。手を握るだけではすまされない場面も出てきます。でも、それでも孫が婆の手を握り続けようとするとき、支えになるのはやっぱり、主人公の中にある懐かしい思い出だったりするんですね。苦みを含んだその機微がしっかりと描かれているところが、私にはいちばん胸に迫りました。

私は、統合失調症でも、認知症でも、子どもでも、自尊心の再建が重要な鍵だと思っています。これ抜きでは、治療でも介護でもリハビリテーションでも必要な士気が得られません。

『臨床瑣談 続』(みすず書房)より

これは昔、精神科医の中井久夫さんのエッセイで読んで、心に残っていた一文です。マンガの読後感と重なるところが多かったので、最後に何か所か引いてみたいと思います。

「もの盗られ妄想」が頑固な思い込みとして有名です。しっかり者の人に多いといわれるのがほんとうだとすれば、家庭のもの、特に身辺のものを確実に把握していた人、それがプライドの一部だった人だったからでしょう。人間の自尊心の置きどころはしばしば本人もわからないものです。
 しかし、それだけではなくて、記憶の喪失の実感を訴えているかもしれないのです。記憶はまさに盗まれるように消えていきます。せんだってまであったものがない。断りもなしになくなっていきます。盗まれたとしかいいようのないものではないでしょうか。できたら人のせいにしたい。人間には多少ともその性質があります。全部を自分のせいにしていたら、プライドがもたない。(同前)
いかにして認知症の人がプライドを持つことができるか、という問いがあるかもしれません。それは、人として大切にされ、存在していること、ここにいることが喜ばれているという感覚を持つことでしょう。それが日々のやりとりの中に認められることです。(同前)


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