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「何物にもならなくていい」とエライ人は言うけれど

今日はこんな本を買ってみた。先ほど目次に目を通していたところ。
内容は、中国は明朝末期に書かれた処世術。三教(仏教・道教・儒教)を組み合わせた、人生をよりよく活きるコツに触れられている。

この本のレビューの中に「今でいうとTwitter的処世術」との記載を目にして感心しました。古典的書物といえ、そうしたイメージで目にすれば敷居は低くなる。

目次をパラパラと見ていたら「足るを知る」「欲望にはきりがない」「ちっぽけな存在」といったものを見かけた。

以前から何度も目にしたような言葉。

SNS全盛にあって、これからも更に肥大化していくであろう承認欲求への追求を戒めるために「何物にもならなくていい」と諭す内容の本やネット記事・ブログの数々。

それらを読むと確かに納得。

だが、「何物かにならないと生きていけない時代」になってしまったとしたら?

もはや会社を頼れないから、会社を頼らずに個人で生きよう!という声がさらに増してきた。

それまでは会社勤めしていれば、自分のことは前面に出すことなく会社の名前で宣伝・営業できていた。

それを個人の名前で宣伝・営業しなければいけない。会社を頼らずに生きていくには、個人が自分の名前で最前線に出て宣伝・営業をしなければならない。

そのためには個人が多くの人目にさらされる。そして、目にした人の印象に残さなければならない。そのためにはどうしても「他の人とは違う何か」になる必要がある。

つまり「何物かにならなければ生きていけなくなっている」と言える。

何物かになるために、多少過激な発言も必要だろうし、曖昧でいいことを断言してしまうことも多々あるはずだ。

何者かになることなく生きようとすれば、組織の中で慎ましく生きることも可能ではあるものの、組織のしがらみの中でそれなりの忍耐も必要だし

経済的に自立して生きようとすれば、それなりに「何物か」になって自分を公にPRし続けなければならない。

だから、今は必要最低限の暮らしをするためでも、それなりに「何物か」である必要のある社会になってきた、と言える。

そんな中で唱える「何物かにならなくていい」「足るを知る」というのは、かなりの無理ゲーに思える。

最近、何かの記事で「これからの日本はタワマン居住する層と貧民街で住む層に二分されていく」的な文言をみた。

そんな時代で「何物かにならないまま充実した人生を送ること」は可能なのか?


たぶん、無理。

有名度合いに差はあれど、イヤでもセルフブランディングは必要。

「私は〇〇です」と、自分は何がが出来る何者か、である必要はある。


厳しいし、イヤな時代なのかもしれないけれど、時代の流れは誰にも止められないので、可能な限り受け入れて対応しつづけるしかない。


そうしたなか、今日も試行錯誤を続けている。

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