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教育臨床研究で何を目指すのか

先日,ゼミ生たちと話していて思うことがあった。

彼らに限らず,他の研究室の方もひっくるめて,学部生やストレート院生に限らず,現職院生にも言えることなんだけど,「AよりもBの方が優れている」「この教材・指導は効果的な方法」とか,優越を示す研究や効果的な方法を開発する指向性が強いと言うことである。

もちろん,そのような研究を否定する気はないし,自分もそのような研究をしてきたし,また,それら研究結果が学校現場に貢献してきた事実がある。その中で私が思うのは,教育学部の学生や教職大学院の院生の指向性がそちらにばかり向けられるのは危険だよなと言うことである。そして,「それにはどんな意味や価値があるのだろうか」「当たり前に行われている教育実践だけどもう一度見つめ直してみようよ」「こどもたちはどのような学びの姿を見せているのか,じっくりと観察分析しよう」と言うような,そこにある事実や意味や価値を見出していくような研究をも大切にしてほしい。そして何よりもそのような視点や指向性を持つ教師であってほしいと言うことである。

大師匠である西川純先生から教えていただいたことは数多あるけど,その中でも大切にしている指摘がある。

「大島さん,あなたICTの研究をしているけど,それでいいの?俺(西川先生)はこれまで多くのICT研究をしてきたし,他の人たちがしてきたのも見てきたよ。それらの研究は,新しい技術が開発されたらすぐに取り組まれその効果が研究結果として報告される。でも,しばらくしたらそれを超える技術が開発され,それまでの技術や研究結果は陳腐化する。あなたの研究は,数年後には陳腐化して誰も見向きもしてくれなくなるかもしれないよ」

その瞬間,脳天を撃ち抜かれる思いをした。

しかし,それから落ち着いて,こう切り返した。

「先生,ご指摘ありがとうございます。その通りですね。ただ,自分がやっているのは,このICT技術・使用方法の効果を主張するところで留めないで,そもそもその背景にある教育観・設計思想を主張することが目的です。だから,次の技術が生まれてもその考え方は腐らないと信じています。」

すると,西川先生はニヤリとして,「よしよし」と頭を撫でる真似をして去っていった。

このやりとりは,西川先生がICTの研究をするときの,いや,教育研究をするときの根幹を伝えてくれたのだなと思い,自分の研究者・教育者としての生き方の指針として大切にしている。

この指摘は,教育研究に限らず,教育実践の場においても言えることである。教育実践においては,「優れた」・「効果的な」実践方法が教育ビジネス書として書店に並んだり,民間研修の中で報告されたりする。

小学校教師だった自分は,そういう情報を求めて,本を買い漁り,民間研修に足繁く通った。そして,その情報を手にすると次の日の教育実践として活用した。その実践は初めうまくいくけど,次第に綻びが生まれ,停滞する。そして,そんなタイミングで次の実践の情報が手に入り,それを試みる。こんなことをただ繰り返し,実践を消費する日々を過ごしていたのが自分だ。今思うとそんなのは当然で,その実践を開発/報告している人は,その人と教室の文脈,その人の根底にある教育観においてその実践をしていたのであって,それを文脈性の違う,教育観の構築もままならない根なし草の自分がその実践をトレースしても上手くいかないのである。

ところで,自分は大学に関わってから幾つもの卒業研究を目にしてきたけど,自分の中でずっと残っている研究がふたつある。それはどちらも桐生研究室の研究で,1つは,心疾患のある患者家族同士がつながるコミュニティの様相とその心うちを調査した研究,もう1つは,朝の交通安全指導ボランティアの方の活動の様相を長期に渡り調査し,そしてその方にインタビューをし,実態を調査した研究である。どちらも,どちらもその研究結果は,明日の教室実践に使える方法ではない。しかし,そこで見えてきたことは,学校教育を見つめ直し,学校教育とは何かを深く考えさせられるものであった。そして,その深く考える営みを通して,自身の教育観を醸成させることに繋がる。この二人の取り組みは,テーマ設定の後から少し離れたところで見させてもらっていたけど,その真摯な姿勢には頭が下がる思いだったし,研究発表を見せてもらって感銘を受けた。20歳も離れた自分だけど,彼らから学ぶことが沢山あった。

さて,卒業研究シーズン,そして,教職大学院の研究成果のまとめの時期です。そこにどのような意味や価値があるのだろうと問う研究をされている方には,ぜひ自信を持って研究に取り組んでいただきたいなと思います。

そして,少しでも,そのような研究や視点の価値が共有されていくといいなと思います。

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