真実はいつも一つかもしれないし、一つでないかもしれない話
まだ残暑が厳しい2019年8月のある日の事です。
観葉植物の隙間から差し込む西日に目を細めながら、息子がふと、つぶやきました。
「ぼくね、もうドラえもん見なくなったんだ。今はコナンが一番好きなの」
!!!
ドラえもんが大好きだった息子です。
特番で2週連続で放送されない日にはテレビ朝日に抗議の電話をしていたほどの、筋金入りのどらえもニストの息子です(*注)。
「ひみつ道具を10個言えた人が勝ち」という挑戦を1000回は私に挑んできていた息子です(私は興味が無さ過ぎて毎回完敗)。
(*注:その時は怒り泣きが収まらない息子に、日本の年齢別の人口構成のグラフを書いて示し、年少の息子達よりも圧倒的多数の年配者が好む番組を流したほうがテレビ局としては良いことを説明しました。理解しているかは分かりませんがキョトンとして泣き止みました)
その息子が、まさかのドラえもん卒業宣言をするとは。
いつまでも小さな子供だと思っていたけど、人が死んだとか誘拐だとか、そういう物騒な話に心を惹かれるお年頃になったのですね、、。確かにあと5年で元服だもんな(今10歳)。
そんな訳で今、息子が一番大好きなのはコナンと相なりました。アマゾンで夕食後にコナンを見たさに、宿題を片付けるスピードの速いこと、速い事。怖いので宿題の出来は確認していません。
おかげで毎日のように物騒な言葉が家事や仕事をしている時に嫌でも耳に入ってきます。
そこでいつものお決まりフレーズも。。。
「真実はいつもひとつ!」
あー、出た出た、このフレーズね。
・・・
やれやれ。
真実はいつも一つかもしれないし、一つではないかもしれない。
私は飲みかけのカフェラテのカップを机に置きながら、こうつぶやいた。
「信じられないかもしれないけど、お母さんも昔はそう思っていた時があったのよ。」
・・・
そう、私も昔は「真実はいつも一つ!」と信じて疑わない時がありました。
正義感を振りかざして、一つであるべき真実を追求し、これは違う、と思ったロジックや観点はバッサバッサと切り倒して猪突猛進に突き進む時期がありました。
(その頃は今以上にめんどくさい人間で、多くの方にご迷惑をおかけしたかと思います、、。申し訳ありませんでした。。)
ところがですね。
年月を重ねて生きていると、その「真実は一つ」神話がどんどん崩れて来たんです。あらびっくり。
特に私の仕事は企業と人材の間に入る仕事でもあるので、「立場が違うとこんなに物の見方が変わるのか!」という事をまざまざと感じる日々を過ごしているので、そこからの学びや気づきが多かったように思います。
どちらが正しい、正しくない、ではないんです。
意見を異にする方々にとっては、自分の考えこそが「客観性を伴う真実」なのです。双方が自分の主張を支持する「客観性」を根拠にするので、どこまでも平行線になったりすることがあります。
(そういえばこういった事例は人材紹介の仕事でなくても、日々の夫婦喧嘩でも経験させてもらってますね、、。妻側の「こういうものだ」という真実と、夫の「こういうものだ」と主張する真実がどこまでも平行線だったりするんですよね。時には「言った、言わない」という事でさえ、双方の言う「真実」は違っていたりして。そうした場をどう収めるのか、というのは非常に高度な調停のスキルが身につく機会なのだと思い、日々修行に励んでおります(汗)
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客観的な事実は一つだよ?という意見もあるかもしれません。
でも上述のように、その「客観性」の定義や認識さえ、各々の立場や知識の差などで異なってくるのでは、という事に気が付いてきたのです。
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それに加えて、世の中や自他をどう捉えているのかという「世界観」も、こうした事実認識の違いを生み出しているのかも知れないなぁ、と思ったりしています。
ここ数年個人的に勉強を続けている「成人の発達理論」では、発達段階によってかけている眼鏡(レンズ)が異なるので、世の中が違って見える、と言われています。
その比喩をもう少しアレンジすると、眼鏡(レンズ)というよりもカメラの違いかな、と。
普通のカメラで撮影して見えるものと、赤外線カメラで撮影したものは、同じ事を撮影していても、見えるものが異なりますよね。
片方で映るものが、もう片方では映らなかったりします。
これまでは普通のカメラ(そして人間の裸眼)では見えなかったものも、テクノロジーの発達で人間の目では見えない事も可視化できるようになってきています(温度を色で示すセンサーなどもそうですね)。
そしてそれぞれのカメラで写されたものを、人は「これが事実」と認識するわけですね。
最近は前提とする世界観が異なる人と話していると、分かり合えない寂しさや疎外感を感じる事が少なからずありました。
でもそれは「どちらの真実が正しいか」という事ではなくて、単に持ってるカメラの違いなのだ、見えているものが違うのだ、と気づいてからは逆にその違いを尊重出来るようになり、そこからどう共存していけるか?まで考えられるように変わってきました。
どちらのカメラが高性能だから上だとか、そういう問題ではなくて、「自分の持っているカメラと、相手の持っているカメラは違う(見え方が全く違う)のかも?」と気づくことが有益なのかな、と思ったりもします。
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願わくば、色々なカメラを携帯して、状況に応じてカメラを使い分けたり、両方のカメラで見てみたり、、という事が出来たらなぁ、
そうしたら多くの人と理解しあえて、より複雑で多様でカラフルな世の中を見ることが出来て、人生が豊かになるのかもしれないな、、という事も考えたりするのでした。
真実はいつも自分の心が決める。
Byたかを ←誰?
おしまい。
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