自#059|テレワーク中に得たものは、筋力だけでなく、判断力も少しupした(自由note)
私は、首にタオルを巻いて、自宅では過ごしています。理由は、喉(のど)を守るためです。外に出る時は、タオルは巻かなくなりました。高1までお洒落でした。中2、3の頃は、メンズクラブが一番の愛読雑誌でした。人生の最終段階(ヒンズー教で云うところの遊行期です)に突入したので、少し、お洒落だった自分を、取り戻そうと努力しているわけです。
マスクをする習慣は、まったくありませんでした。咽喉を守るためには、マスクをした方が望ましいと、理屈では理解しています。が、マスクをしていると、理解力、集中力が落ちます。ずっとしていれば、慣れると思いますが、やっぱりある程度は、阻害されてしまいます。あと、喋りづらいです。くぐもった自分の声を、モニターして聞くことになってしまうので、積極的に喋りたいと云う気持ちは、なくなってしまいます。
前の学校が新校舎になって、4階の廊下の北の隅の音環境が、抜群に良かったので、そこで、音読をしていました。小さな声で読んでも、声がリバーブして聞こえます。4月から今の学校に移動して、やはり4階で、多少、リバーブのかかる空間を発見しました。一番、いい場所は、屋上に抜ける階段の上の踊り場です。が、残念ながら照明がちょっと暗い感じです。暗いとこで本を読んでいると、目を悪くします。各フロアーの廊下に、外側に張り出しているちょっと広目のアルコープ空間があって、4階のアルコープで、本を読んでいます。無論、4階に生徒がいない時です。マスクをして音読をするのは、私の場合は、NGです。くぐもった声をモニターしても、モチベーションは高まりません。周囲に誰もいない時、マスクを外して、声を出しています。
授業は、マスクをして喋っています。これは、教委から降りて来たガイドラインに沿ったきまりですから、やむえません。マスクには、保湿機能があります。ですから、喉の渇きを感じづらくなってしまうんです。私は、一昨年、軽い熱中症を2回起こしましたが、本格的な病院に搬送されるようなシリアスな状態に陥ったことは、ありません。水を、ちょいちょい飲んでいるからです。授業で喋り始める前は、まず水を軽く飲みます。ビスマルクは議会の演説の前に軽くウォッカを飲み、チャーチルはブランディを呷(あお)っていた筈ですが、ビスマルクやチャーチルに、ほんの少し感情移入しつつ、普通の水道水を飲んでいます。エビアンのミニサイズの容器に、学校の水道水を入れています。long long time agoのその昔、花瓶に挿してあった枯れた花を取り出して、くさった水をどわっと飲んで、初回の授業で、生徒のheartを掴(つか)んだことがありますが、今はもう、そんなリスクの高い無茶なことは、絶対にしません。水は、毎朝、新しい水道水を入れています。
マスクをしていると喉が渇かなくて、水を飲むことを忘れてしまいます。ですから、出席を取る教務手帳の表紙に、「water」と付箋に書いて貼ってあります。
一昨年の熱中症の救急搬送者は、9万5千人で、死者は1500人を超えたそうです。これは、新型コロナの累計死者数900人を、はるかに上回ります。コロナ対策も大切ですが、熱中症予防も、同時にしなければいけません。運動をして、汗をかく機会があった方が、発汗機能は高まります。日中の日差しが熱い時に走るのは危険ですが、朝方とか、涼しくなった夕方に走るのは、発汗作用も高まり、効果的です。通気性にすぐれた夏用のマスクも発売されているそうですが、通気性にすぐれていると、マスクとしての機能は、おそらく弱まってしまいます。
コロナうつが増えているそうです。テレワークですと、どうしても生活のリズムが崩れてしまいます。生活のリズムを崩さず、規則正しい生活をして、適度な運動をし、バランスの良い食事、充分な睡眠、あと好きなことに打ち込めれば、コロナうつから脱出できます。
テレワークの頃、私は広場の木陰で、本を読んでいました。新緑の4月、5月のほぼ2ヶ月間、木陰で本を読んで、読書の新しいスタイルを獲得しました。欧米の公園のベンチには、日光浴をしながら本を読んでいる人が、沢山います。私も、今回、戸外で本を読む楽しさを、発見しました。
広場のあちこちに花壇があります。その花壇の花に水やりをしているおばあちゃんがいます。おばあちゃんは、2リットルのペットボトルに水を入れて、一日、3回、水やりのために号棟から降りて来ます。あちこちに花壇があるので、3回に分けているんです。その3回は、着ている服が違います。降りて来る度に、服を変えているんです。毎日、見てました。2週間くらいで、1周させていると理解しました。つまり、3×14=42。少なくとも、ワンシーズン、42着は、服を持っているんです。フランス人は、服が10着あればいいみたいな本のセオリーからすると、おばあちゃんは、4倍以上の服を持っていることになります。毎日、3回、服をchangeさせて、生活にメリハリをつけているんです。
山折哲雄さんの自伝を読んで、90歳になろうとしている山折さんは、最後まで残していた「柳田国男全集」「長谷川伸全集」「親鸞全集」の3つをすべて、教え子や友人に譲り渡したと云う事実を知りました。正直、とんでもなく感動しました。これこそ、究極の断捨離です。終活と云う言葉がトレンドですが、ここまでやり切らないと、真の終活とは言えません。親鸞全集を手放す時、身を切られるように辛かったそうです。が、譲ったあとに、とほうもなく大きな解放感がやって来て、その解放感は、旧制中学2年の敗戦の時の解放感と、まったく同じだったそうです。親鸞は、救いでもあったし、重荷でもあったと云うことです。親鸞全集を処分することによって、親鸞の云う「自然法爾」に限りなく近づいたと云えるのかもしれません。禅の世界では、不立文字と言います。本で何かを得たとしても、最終的には、それを乗り越えて、より高い境地に到達しなければいけないと言う風な意味だと思います。
私は、いつか読もうと思って、買っておいた、亀井勝一郎全集を、今回、処分しました。3冊くらいは読みました。亀井勝一郎を読む、時間とエネルギーがあれば、まず古典を読みます。亀井勝一郎を読む、余裕と時間はないと判断しました。歳を取れば取るほど(老い先が短いわけですから)優先順位をしっかりとつけて、エネルギーと時間を、適正に配分する必要があります。テレワーク中に得たものは、筋力だけでなく、判断力も少しupしたと感じています。