自#145|正しいことを言い続けることが、正しいことなのかどうかは難しい問題(自由note)
ダイヤモンドプリンセス号の感染症対策を告発する動画を公開し、一気に炎上してしまった、神戸大学の岩田健太郎さんのインタビュー記事を読みました。岩田さんは、島根県の松江市出身です。高校時代は、偏差値や成績で評価され、縛られるのが嫌で、受験のためではなく、自分のためにがむしゃらに勉強をしていた様子です。社会科学と自然科学の両方を学べるのは医学部だろうと考えて、地元の島根医大に推薦で進学します。
日本では、医学部がもっとも難関で、徹底的に受験勉強をやり抜き、高い偏差値をclearした後、医学部に進学します。つまり、受験エリートじゃないと、医学部には進学できないし、医者にはなれません。アメリカの場合は、大学で4年間、リベラルアーツを学んだ後、メディカルスクールに進学します。貝原益軒は、医学を学ぶ前に、まず儒学をマスターしなさいと、養生訓で力説しています。それは、リベラルアーツとしての儒学を学んだ後、医学の道に入って行きなさいと云う意味です。
岩田さんが大学に入学した頃は、バブル期の最後あたりで、同級生は遊ぶことしか考えてなかったようです。島根の松江にまで、バブルが押し寄せていたとは、正直、考えぬくいです。松江には、かつて行ったことがありますが、すぐ傍に宍道湖のある落ち着いた静かな街です。あの田舎町で遊んでいたら、逆に浮くかなと思ってしまいます。が、一所懸命、勉強したいと考えていた岩田さんの方が、どうやら浮いてしまったようです。
岩田さんは、より広く勉強し、世界を知るために、2年時に休学して、イギリスのマンチェスター大に留学します。マンチェスター大で、志の高いアフリカからの留学生に出会います。その彼は、イギリスで勉強して、母国に帰り、母国の識字率を引き上げ、ゆくゆくは衛生教育を教える学校を建てたい、自分が学ぶのはそのためだと、常々、語っていたそうです。さほど深い考えもなく、ぷわっとした気持ちで留学していた岩田さんは、カルチャーショックを受けます。
帰国後は、顕微鏡を覗き続けて、基礎医学の学者を目指そうとします。大学4年生の時、長野県の乗鞍で開催された、感染症についての勉強会に参加します。この頃は、感染症を学ぶことは、もはや時代遅れで、医学生の大半は、癌や生活習慣病の研究の方に進んでいました。このままでは、微生物学に関心を持つ学生が途絶えてしまうと、全国の微生物学の教授たちが危機感を持って、自分たちの身銭を切って、合宿施設を手配し、有志学生を集めて行った感染症についてのセミナーだったようです。このセミナーでも、岩田さんは、どうやら、派手に出る杭だったようです。当時の参加者の一人が
「岩田さんは、あの頃から抜きん出ていました。英語のレベルが高くて、他言語の文献からも情報を得て、物事の本質を考えていました。医学は本来、美術や哲学、自然科学など、すべての基礎学問の土台の上に存在するものですが、日本では偏差値重視で医学に入ってしまうので、その大事な分野が薄いまま、医者になってしまいます。そんな中で、彼には、必要なリベラルアーツが、しっかりとあったわけです」と語っています。
岩田さんは、アメリカの医師国家試験が全て基礎研究であることを知ると、これにchallengeします。5年生の時に米国医師国家試験ステップ1をクリアし、6年生で、ステップ2に合格します。当然、英語の勉強も地道にやっています。
大学卒業後は、日本で一番、研修医教育が厳しいと言われている沖縄の中部病院で、研修を受けます。中部病院は、米軍占領時代から、アメリカ式のレジデントトレーニングが施されていて、ハワイ大学とも提携し、米国最新医学に基づいた治療方法が学べる病院です。研修は予想以上に厳しかったんですが、治療行為において、きちんと説明できれば、それが上級医の意見と一致しなくても、研修医は非難されないと云うアメリカ式システムは、岩田さんの性格に合っていたようです。つまり、アメリカでは、「上の先生がこう言ったから」では、通用しないと云うことです。当たり前のことが、アメリカ医学界では行われていて、その当たり前のことが、日本の医学界では、そんなに当たり前でもないと云うことなのかもしれません。
その後、渡米してニューヨーク市で内科研修。同市内のベスイスラエル病院では、感染症の後期研修医(フェロー。大学院の博士課程のようなものだと推測できます)になります。岩田さんは、この病院で学んだことを、すぐさまメールマガジンで、日本の医師に向けて発信したそうです。感染症について体系的に学ぶ場が、当時の日本にはなかったので、岩田さんが発信する情報は、貴重だったようです。
岩田さんは、米国で研修を終えると、中国の北京で家庭医としてのキャリアを積み、帰国して千葉県の亀田総合病院に感染症科を立ち上げます。亀田総合病院で、感染病科の礎を築いた後、神戸大学に教授として迎えられます。
2009年に新型インフルエンザが猛威を振るった時、感染病の専門家として、当時の桝添厚生労働省大臣に、意見を求められます。岩田さんは、重症者を無視する医療サービスの愚や、新型インフルエンザに入れ込むことで、他の命にかかわる病気治療がなおざりになっては本末転倒であると、一切の忖度なしに、歯に衣を着せぬ正論を述べます。
ダイヤモンドプリンス号のケースでも、正論を述べたわけです。が、正論を述べてしまって、ネットは炎上し、研究室にも非難の電話が、毎日、とんでもなく沢山、かかって来て「何を勝手に乗船して現場を混乱させているんだ」「神戸大は政府に楯突くのか」「英語で反日活動をするな」などと、バッシングを受けます。正しいことを言うと叩かれる、まあ日本的な風景だと言えます。岩田さんと親しい、神戸女学院の名誉教授の内田樹さんは
「岩田さんは、日本一、空気を読まない男。彼しかできない。が、僕は武道家なので、呪詛の声が身体を壊すことを知っている。命を大事にして欲しい」と語っています。私は、下っぱの役人と、学校の教師の経験しかありません。ですが、正しいことを言えなかったことは、それこそ枚挙にいとまないほど沢山あります。正しいことを言い続けることが、正しいことなのかどうかと言うのは、まあ、なかなか難しい問題だと思います。