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自#112|勢津子おばさんの青春物語~その5~(自由note)

 4年生と5年生で、家事の科目を、週二時間ずつ学びます。これは、裁縫を除いた家庭の仕事全般をカバーしていた様子です。(この科目に対する)親の期待も大きかったと、勢津子さんは書いています。

 高等女学校に行かせられる家庭でしたら、母親が娘に家事をきちんと教えられるんじゃないかと、まあ単純に考えてしまいそうですが、各家庭には、やはりそれぞれ事情があります。八王子は絹の街で、製絹や染色、捻糸、織物などの会社の経営者の子女もいます。母親が夫を助けて経営に携わっている中小企業の社長夫人のような方は、娘に家事を教えたりする余裕はないかもしれません。

 当時、八王子には、横浜の絹の輸出商の二号さんがあちこちに囲われたりしたそうです。
「今から思うと、ハハーンと納得のゆく家庭の娘さんもいました」と、勢津子さんは書いています。二号さんが、母として、娘に家事を教えられないってことも、なかったかもしれませんが、教えることが苦手だと言うか、そういうことが、まったく向かない母親だっていた筈です。私も二号の息子ですが、自分の母親に、子供に教えるスキルがあったとは、到底、思えません。私の母親は、自分自身が生き抜いて行く生命力には、満ちあふれていましたが(それこそ二号であっても、水商売の仲居でも、旅館の住み込み女中でも、蕎麦屋の皿洗いでも、病院の付添婦でも、何をやっても生き抜いていける人でした)子供に何かを教えると云うことに関しては、まったく無能でした。そういう母親も、世の中には、一定数、存在するので、女学校で家事の基礎を教えることは、やはり、当時の府民に求められていたし、必要だったんだろうと推測できます。

 家計の立て方は、修身の時間に習ったそうです。あとの衣・食・住・育児・看護などの全般を、家事の科目でカバーしていたようです。第四高女の他校と違う家事の特色は、絞り染めだったそうです。そこはやはり、絹の街と云う土地柄が、大きく関連しています。最初は、絹ではなく、さらし木綿を使った単純なぬい絞り。これは、模様の輪郭や曲線などに沿って糸で縫い、その糸を引き締めて染色する方法です。その次は、巻き上げ絞り。これは、布をつまんでおいて、糸をぐるぐる巻き付けて染めます。で、かのこ絞り。これは、あのかのこのちっちゃなつぶつぶを、何らかの方法で(おそらく糸で結わえて)隆起させて、染め出したものだと思われます。かのこ染めは絹を使います。木綿は、直接染料、絹は酸性染料を使用し、その他、媒染剤、浸透剤、助剤なども駆使したそうですが、文章で読んだだけでは、絞り染めがどういうものなのか、判然とは解りません。私が高2の時、Tシャツの背中の部分をつまんで糸で結え、それを紅茶で煮る絞り染めが流行しました。仲のいい同級生は、結構、やってましたが、私は未体験です。どんなに暑くても、Tシャツのような半袖姿になったりはしないので、必要なくて、スルーしました。

 洗濯の実習も、洗い張り、板張り、伸子張(しんしば)りなど、絹の洗い方を学びます。これは、和服をほどいて洗い、のり付けして、板張り、あるいは伸子張りなどにして、しわを伸ばすと云ったスタイルで、洗濯をするメソッドです。

 育児・出産の講義の時、先生から
「お産の時に親類中からボロ布をもらい、これを産ボロと言いますが、産ボロを使うのは、やめていただきたい。お産には清潔な脱脂綿を使うように。産ボロを使うと、すそ風と云う恐ろしい産褥熱にかかり、大変危険です」と云う厳しい御注意もあったようです。清潔な脱脂綿を使って、細菌・ウィルス感染を防ぎなさいと云う教えだったわけです。

 家事のカリキュラムで、死の判定法も教えています。今と違って、ほとんどの人が、家庭で死にます。たとえ、病院に入院していても、助かる見込みがないと判明すると、自宅に帰ります。自宅の畳の上で、家族に看取られながら死ぬのが、当時の当たり前の常識でした。

 いよいよ死ぬと云う時は、まず熱が下がって、脈拍数が増加するそうです。これは、チェーンストック氏呼吸と云うそうですが、それは充分に呼吸ができなくなると、炭酸ガス(二酸化炭素)が呼吸中枢を強く刺激するので、急に脈拍数が多くなるのだそうです。これが臨終の特色で、いよいよ死ぬと云う時は、家族が死に水を取れるように、準備をしておかなければいけません。死に水と云うのは、広辞苑には、死者の末期に口に注ぎ入れる水と、解説してありますが、実際は、注ぎ込んだ水を飲み下す力は、もうありません。水を湿した綿を、唇に当てて唇を湿してあげると云った作業です(死に水は、私も小6の時、祖父が逝去した時に、取りました)。

 家事とは別に、1、2年では、作法の授業があります。その授業は、広い畳敷きのお作法室で実施します。私は、若い頃、お茶を習っていましたから、畳の歩き方、座り方、膝行の仕方、にじり口からの入席の仕方、お茶の点て方や飲み方、懐石料理の食べ方など、ひととおり習いました。作法をマスターすることによって、最初の免許がもらえます。ですから、お茶やお花を習えば、作法の基本は学べますが、そういう民間委託ではなく、最低限の基礎基本は、公立の学校で学ばせると云うコンセプトだったんだろうと思われます。

 お茶はカラのお茶碗を使ったまねごと。お菓子は、きれいな毛糸を束ねて和菓子風に作ったものを、使ったそうです。お茶を習っている生徒は、沢山いたでしょうし(半数以上、もっとかもしれません)さほど必要ではなかったかもしれません。お箸で毛糸玉をつまんで懐紙の上に取り、黒もじで割って、口元に運ぶなどと云ったパフォーマンスを、一人一人、先生の前でやる訳ですが、笑いたいのを必死にこらえていたと、勢津子さんは述懐しています。

 一の膳から三の膳までの、本膳の食べ方も習ったそうです。焼き物には手をつけてはいけない、鯛はニラミ鯛といって見るだけで、持ち帰るものだと注意されたそうです。この話は、お茶の先生に聞いたことがあります。魚の食べ方が、難しいので、持ち帰ったんじゃないかと、お茶の先生は仰っていました。

 作法の最後の授業は、按摩(あんま)、つまりマッサージです。お姑(しゅうとめ)さんのマッサージが、きちんとできることが、良妻賢母の必須のスキルだったと云うことなのかもしれません。

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