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教#005|形而上学は極められなかったけど、28歳で人生の方向性は決めた話(たかやんnote)

 内田樹さんが、教育について語っている、ある日のブログを、紙ベースで知り合いから貰いました。一番、納得したのは「先行き何になるかわからない」と云うフレーズです。17、8歳の高校生に、将来を決めろと要求するのは無理です。無理だと解っていても、高卒で即座にstartしないと、一流にはなれない職業があります。日本料理とフランス料理、中華料理の調理人がそうです。パティシェ、美容師、洋服のデザイナー、競馬のジョッキー、競輪・競艇・車のレーサーなども、高卒で、すぐさまスキルとセンスを磨く必要があります。あとは、大学に進学してからでも、間に合います。

 小学校から、プログラミング教育が始まります。コンピューターに、早い段階で、親しませようとしています。が、日本の「インターネットの父」の村井先生が、コンピューターに初めて接したのは、大学5年生の時です。

 大学で勉強のテーマが決まれば、大学院に進学するのは、本来、決して、悪い選択ではありません。高学歴化が、世界のトレンドです。ですが、大学院進学は、以前よりも低下しています。over doctor 問題などが、騒がれて、博士になっても、就職口がないと云った実態が、明らかになり、学費がかかる割には、メリットがないと云う風な判断を、cleverな大学生たちは、しているのかもしれません。就職は、相変わらず、大学の新卒、一括採用がメインです。大学4年で、海外インターンシップに行って、大学5年で就活をすると云うのも、許されるようになりました。今の意識高い系の学生にとっては、これがひとつのトレンドです。

 教育実習に来ても、その年、教員採用試験を受けない学生がいます。いったん一般企業に勤める社会人になって、社会人枠で、将来、教員採用試験を受けると説明する学生もいます。教員になる前に、一般企業の社会人としてのキャリアを積むことによって、人間性の幅を広げると云う風な考え方なのかもしれません。が、「先行き何になるかわからない」と、これが、リアルです。誰の人生も、思い通りにはならないものです。

 先日、教え子が手紙で「ニシモリさんは、就活をやったんですか?」と、鋭く突っ込んで来ました。嘘を言っちゃいけないので、「オレは、就活をやってない」と、正直に答えました。みんなが、就活をやっていた頃、私は京都で、葉桜や新緑を眺めていました。京都なんて、ちっちゃな街なんです。東山から嵯峨野あたりまで、歩こうと思えば、歩けます。京都のあちこちを歩きながら、「人間は何故、生きているのか」「神ははたして存在するのか」「人生の意味は何か」と云った風な形而上学的な問題を考えていました。西田幾太郎や鈴木大拙の哲学書や仏教書を、解りもしないのに、無理やり、読んでいました。形而上学の果ての果てまで行きたい、それが、大学4年の春の私の進路(?)の方向性でした。

 が、自分で食って行く必要はあります。自分で食うと云う形而下的な問題を処理しながら、同時に形而上学もきわめる。まずもって、二律背反的な不可能な命題です。

 ある日、親友のHの父親から、県庁の採用試験の願書を出してあるから、試験を受けに帰って来いと云う電報を受け取りました。親友の父親のメンツをつぶす訳にも行かず、親友にも会いたかったので、帰省をして、試験を受けて、合格しました。で、高知県庁の行政職の公務員になりました。県庁の公務員になったのは、そんな冗談から駒のような、軽いノリの偶然です。

 1年目は総務部の財政課と云う主管課で、でっち奉公をしました。タテマエとして、1年目は、本庁で1年間、研修と云う位置づけだったんですが、実質、やっていたことは、でっち奉公です。初日に、どっかのおばさんが、いきなりやって来て(農林部系の主管課の課長補佐でした)
「朝、一番に来ないかんぜ。まず窓を開けて、換気。そいから部屋の掃除をして、先輩のお机を拭き、お湯を沸かして、先輩が登庁するまでに、部屋をこじゃんと整えちょきや」
と、朝、するべきことを、私に教えました。ほんの2、3日前まで、ふわふわしていた学生が、いきなり軍隊に入ると、生活が一変するわけですが、私の生活も、何もかも変わりました。仕事は、主に雑用です。昼食の注文は、バイトの女の子が取ってくれます。夜の食事の買い出しは、20人の注文を聞いて、私が一人で買い出しに行きます。PM5:00~7:00までが買い出し。徒歩で、スーパーや公設市場をかけ廻っていました。365日、ほとんど休みなしでした。仕事は、毎日、夜中の12時まであります。飲みに行くのは、AM12時を過ぎてからです。AM3時まで飲んで、私はサウナに行って、職場に帰って来て、倉庫に置いてあるボンボンベッドで寝ました。この1年間、本当に嫌と云うほど、仕事をしました。休日に休んだ記憶はありません。教員になって、土日祝祭日も、ほとんどすべて登校して、部活の指導をしましたが、365日、仕事をする耐性は、社会人のこの1年目に身につけました。毎日、3、4時間睡眠で、仕事をしていましたから、形而上学を考える余裕は、まったありません。

 その後、4年間、四万十川の河口の土佐中村の土木事務所に4年間勤めました。財政課時代のテンポが、16ビート、or 瞬間32ビートくらいだとすると、土佐中村は白玉2ビートの、ゆったりとしたテンポでした。牧歌的でのどか、風光明媚な小さな町で、二つの川に挟まれた山紫水明の地でした。人口二万人の町の図書館においてあった文学関係の本は、ほとんど読みました。本屋は、一応、あったんですが、岩波文庫が、5、6冊くらいしか置いてない文化環境では、形而上学はきわめにくいと言えます。

 裏千家のお茶を習ったり、材木屋のおやじさんと二人で、ブランディをきわめたり、南四国の千メートル級の山に登ったり、S&Wのスピーカーを買ってクラシックを聞いたり、お茶の先生の姪御さんの高校生のK子ちゃんに英語を教えたり、四万十川の河口の小京都で、20代後半の青春を満喫しました。

 ある時、K子ちゃんに「ニシモリさん、昔、ロック好きだったんでしょう?」と、言われて、あっ、そんなこと、何かのきっかけで喋ったかもなと思っていたら、「最近のロックを聞いてみる?」と、K子ちゃんが畳みかけて来ました。K子ちゃんは、英語の勉強で使っているラジカセにテープをセットして、playボタンを押しました。ラジカセから聞こえて来たのは、セックスピストルズの「Anarchy in the UK」です。強烈なshockを受けました。何かものすごく大切なものを、ずっと長い間、忘れていて、ようやくそれを思い出した、そんな印象です。ロックが本当に好きだったのは、中1、2のいわゆる中二病時代。この世の中で、一番、大切なものはUKロックだと信じていました。中1、2の頃のあの感じが、「Anarchy in the UK」を聞いて、戻って来ました。私にとって、これは、ある意味、魂の復活でした。UKロックのこの感じで、残りの人生を駈け抜けて行こうと決心しました。そのために、どうすればいいのか、熟考しまた。東京に舞い戻って、高校の軽音部の指導者になって、高校生バンドの面倒を見ると決心しました。教職について、35年間、私のこの姿勢は、1ミリもぶれてないと、断言できます。

 人生の方向性が、確定したのは28歳の時。いつも、30歳までには、人生のテーマを決めろと、若い人には繰り返し言っています。「タンポポ」を500回見て、40歳でラーメン屋のおやじになるのは、NGです。ラーメン屋だって、どんなに遅くても、30歳でスタートです。

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