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教#012|コンビニで、お弁当を買って学習塾に行くのは、おとぎの国の夢物語~「漫画:二月の勝者」を読んで⑦~(たかやんnote)

 ブレイディみかこさんがお書きになった「ぼくイエ」(ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー)をくまざわ書店で買いました。くまざわ書店は、全国、津々浦々にchain storeがあって、驚きました。フランチャイズ方式ではなく、既存の本屋がchain storeとして、連携したのかもしれません。
「ぼくイエ」は、基本の地が、黄色で、リュックを背負った少年がしゃがんでスニーカーの紐を結んでいるイラストを表紙に描き、タイトルを書く部分を、白抜きにし、「The Real British Secondary School Days」と英語のタイトルを青字で表記しています。イエローとホワイトとブルーを、お洒落に使って、装丁してあって(おそらくネットでも読めると思いますが)、やっぱり紙の本がbestだと、完全アナログ派の私は、改めて納得してしまいました。
 扉を開くと、カバーの裏に

 老人はすべてを信じる。
 中年はすべてを疑う。
 若者はすべてを知っている。
 子供はすべてにぶち当たる。

と、俚諺(りげん:民間で言い慣わされていることわざ)めいた言葉を書いています。上記の上の3つは、オスカーワイルドの言葉で、最後のひとつは、みかこさんが、付け加えたフレーズです。

 老人は、すべてを信じる。だから、オレオレ詐欺に騙されてしまうと云う言い方も、できるのかもしれません。私は、自分自身、たいして自覚はないんですが、自己を客観視すると、間違いなく老人です。かつて、吉田拓郎さんが、「青春の歌」を作って、パロディで、「老人の歌」も歌っていました。「さて、老人とはいったい何だろう」と問いかけて、「その答えは人それぞれ違うだろう」と、続けていました。共通する最大公約数的なことを掲げるとしたら、老人は先が短いと云うことです。そう長く生きているわけでもありません。人生の先行きが短くなって、人を疑いながら生きるのは、何かもったいない気がします。オレオレ詐欺には注意して、この世から戦争がなくなり、世界が平和になり、人類は幸福になると信じて、死んで行った方が、よりゆたかで、happyな死に方だと云う気がします。エリクソンのライフサイクル論でも、老年期は、「もう、happy イケイケでも、ええでっしゃろ」的なニュアンスだったと思います。

 中年はすべてを疑う。ゴッドファーザーパート①に、マーロンブランド扮する、初代ドンコルレオーネが、アルパチーノ扮する2代目のマイケルに、「絶対に騙されるな」と、警告を発するsceneがあります。マフィアの世界です。騙されたら、目の前には死が待っています。一般市民の場合も、騙されないために、知力と思考力を養うべきです。塾や予備校に騙されて、お金だけを吸い上げられる傾向が、多々ある、中堅公立高校の生徒の保護者のみなさまには、賢く疑う知恵を、もっとつけて欲しいと願っています。

 若者はすべてを知っている。無論、事実として、すべてを知っているわけではありません。すべてを知っているつもりになってしまうんです。時期的には、やはり厨二病の頃かなと、思います。わけ分かんないハンドルネームをつけて、この宇宙を陰で支配しているのは、実はオレだみたいな、妄想にどっぷりと浸ってしまう時期です。高校の倫理の授業で、ソクラテスを学びます。そこで、「無知の知」を知るわけです。この世の中の大切なこと(人間は死んだあとどうなるのかとか、魂は本当にあるのかとか、輪廻は起こるのかとか、神は存在するのかとか、人間の生きている意味は何なのかとか、などなど)を、人間は何も知りません。99.999パーセントくらい知らなくて、残りの0.001パーセントくらい、ちょっと知ってるだけで、人間はどうにか、こうにか生きている、そういうことを、ギリシア哲学のopeningで学びます。学ばないより、学んだ方がいいだろと、確信して、教職人生の晩年の6年間は、倫理の教師にトラバーユしてました。世界史ですと「ソクラテス」の人名、「無知の知」あとデルフォイのアポロ神殿の碑文に書かれている「汝自身を知れ」のキャッチフレーズ、そのヘンを、さらっと教えたら、ソクラテスは、終わりです。ものの30秒くらいで、語り終えます。

 子供はすべてにぶち当たる。中学受験は、ぶち当たる障害物を、人為的に拵えていると言えます。障害物にぶち当たり、努力して、それを乗り越えます。そのことによって、子供は成長する、そういうsimpleな成長理論です。別段、間違ってもいないと思います。ただ、ぶち当たる障害物は、本当は、diversity、多様性に富んでいる筈です。みかこさんの子供さんのように、元底辺中学校に通って、障害物を乗り越えて行くと云う生き方もあります。

 私は、底辺中学校と、ちゃんとした中学校の2つを経験しました。底辺中学校のどこが良くないかと云うと、秩序がないことです。窓ガラスは割れています(あっ、私も加害者の一人でした)。廊下を原チャが走ります。日常茶飯事のように、体育館の裏では喧嘩をしています。秩序がないと、結局、強いもの勝ちになります。学校が、権力を使って、徹底的に押さえ込まないと、秩序は回復できません。が、相当やる気のある管理職と、生徒部主任、あと本気で学校を正常化しようとする、それなりにやる気のある教員が、最低でも3人は必要です。

「ぼくイエ」の舞台になっている中学校は、元底辺校で「元」がついています。秩序は、一応、あります。秩序があっても、いじめも差別も、万引きも存在します。万引きは、お腹いっぱい食べられない、低所得層(生活保護世帯)の子供が、空腹を満たすために、パンを盗むと云った風な万引きです。生活保護世帯には、給食費が給付されますが、カフェテリア方式の給食で、限度額以上のチケットは使えないので、結局、万引きで、飢えをしのぐことになります。夏休み中は、学校がないので、ずっと、お腹をすかせている夏休みだったりするわけです。

 マズローが言うところの基本的欲求の一番目に来る、生理的欲求すら満たしてないことになります。飢えに負けて、パンを盗んでしまうのを罰するのは、正直、しのびない感じがします。学校当局は、見て見ぬフリをしてるっぽいとこがあります。これをして、秩序がないと言い切ってしまうこともできないと思います。イギリスの下層社会の貧困化は、どうやら子供が、満足に食べられないレベルにまで、達していると「ぼくイエ」を読んで知りました。サッチャー保守政権時代のツケは、貧富の差の限度を越えた拡大化にまで、つながってしまったわけです。

 コンビニで、お弁当やお菓子を買って、学習塾に行く。それは、どこのおとぎの国の夢物語なんだと、思われてしまうかもしれません。


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