自#506「老後の隠居生活は、お金がなくても、やることは結構いっぱいあって、想定外の忙しさですが、これはこれで、幸せなのかもとは、思ったりします」

          「たかやん自由ノート506」

 ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」はプラトン的で、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」は、アリストテレス的だと、解説に書いてありました。ジョルジョーネは観念的で、ティツィアーノはリアルだという風な意味だと、推定できます。「眠れるヴィーナス」は、ギリシアの女神っぽいんですが、「ウルビーノのヴィーナス」は、ヴェネティアの可愛い女性(多分娼婦)をモデルに頼んで、reality溢れる官能的なヌードを描いたと、多分、言えます。
 ジョルジョーネのヴィーナスには、身にまとう装飾品は、一切描かれてません。身体の下に赤と白のマントを敷いていますが、これは、身にまとった装飾品とは言えないと思います。ウルビーノのヴィーナスは、しどけなく折り曲げた右手に薔薇のブーケを持っています。薔薇はヴィーナスのアトリビュートですが、恋愛とか結婚とかのイベントには、欠かせないアイテムです。日本の仏壇に菊が必須であるように、西欧の妖艶な女性のベッドには、薔薇が必須です。が、日本人だって、ベッドのそこら中に、菊を飾って、Sexをしたいとは多分、考えないと思います。薔薇の威力は、普遍的だろうと推測できます。
 左手の小指には指輪、右手首の少し上に腕輪を嵌(は)めています。ヴィーナスは、胸のとこに(バストの下あたり)強烈にセックスアピールする帯(ベルト)をしている筈ですが(トロヤ戦争の時、ゼウスを眠らせるために、ユノーが借りて行ったベルトです)、それはしてません。胸のベルトとなると、さすがに、ちょっとおどろおどろしい感じがします。左耳には、真珠のイアリング。顔立ちが華やかで、コケティッシュですから、ここはやっぱり清楚な真珠で決まりです。ふさふさの髪が、右の肩に垂れています。文句なしの官能的な金髪の巻髪です。源氏物語を読むと、長いふさふさの黒髪が、セックスアピールだというお約束になっています。個人の好みもあると思いますが、長すぎる髪は、洗ったりするのも大変そうです。何ごとも、ほどほどが、いいような気がします。ウルビーノのヴィーナスは、髪の巻き上げも、ふさふさの垂れ方も、絶妙なまでにjustだと感じます。背景にギリシア風の柱が見えていて、柱の間に、ミルテの鉢を置いています。薔薇、指輪、腕輪、ふさふさのカールした金髪、真珠のイアリング、ミルテの花、こういう装置が整えられていて、身体のプロポーションが魅力的で、顔が可愛いければ、普通の男は、簡単に落ちます。そういう理想の女性に落ちたいと考えている男が、ペストが大流行している16世紀のヴェネツィアにも、沢山いたので、ティツィアーノの画業は成り立っていたと言えます。リアルの女性と、fall in loveすると、いろいろ面倒なことも起こります。取り敢えず、ティツィアーノのヴィーナスで、ヴアーチャルな恋を、空想でenjoyするといった気持ちで、絵の注文をしたと考えられます。
 私は「ウルビーノのヴィーナス」より、「海から上がるヴィーナス」の方が好きです。ウルビーノのヴィーナスは、コテコテに作り込まれています。心の中が邪悪でも、偽善の塊のような人であっても、外側を作り込めば、魅力的な女性に変貌します。人間は、見た目が99パーセントですから、まあ普通に、騙(だま)されます。私は、コテコテの見た目の中に、嘘を感じ取ってしまう、素直じゃないキャラです。騙されるか、騙されないかと言えば、多分、騙されないタイプです。海から上がるヴィーナスは、これは、伝説のアペレスの絵を、ティツィアーノの独創で、描いたものです。アペレスに対するリスペクトの気持ちがあり、頭の中のイメージを形にしたいという子供のような純粋な欲望があり、描き上げた女性は古代っぽいし、海も古代のエーゲ海だったりするし、刺激される要素、満載です。歴史やレジェンドのカオスの中から、エーゲ海の漁師の娘が、どわっと登場するといった印象です。官能的でもコケティッシュでもなく、逞しく、powerfulな女性です。まあ、私は海が好きですから、部屋の中にいる華やかな女性よりも、海と一体化している女性の方に、より惹(ひ)かれるんだろうと想像しています。
「イリアス」を読んで、ギリシア神話が、少し解りました。知識として知ったというより、多少、感情移入できるレベルまで、ギリシア神話が、自分に親しいものに感じられるようになったという意味です。日本人は、多神教です。私は、山の神、岩の神、川の神、竈の神、トイレの神、樹木の神、まあ何でもいいんですが、それが神様だと言われたら、ちょっとはやっぱり信じてしまいます。子供の頃は、それがより鮮明でした。一神教を学び、ギリシア哲学も少しかじり、バルザックやドストエフスキーなどの西欧文学の洗礼も受けましたが、あっちこっちのいろんな神さまを、ちょっとずつ信じているという私の本質は、子供の頃から今に至るまで、少しも変わってません。不易流行です。変わってないものが、沢山あって、それをきちんと維持し続けて来たし、老後の隠居生活に入って、人生のどの時代にも、割合、簡単に戻って行けるようになりました。過去のことを、思い出したくない、黒歴史を封印したいと考えている方も、多くいると思いますが、過去に自由自在に向き合えた方が、人生は、よりeasyになりますし、ハピネスも掴み取れると推測しています。
 子供時代の素朴な多神教信仰を思い出せば、ギリシア神話の多神教の世界にも、抵抗なく入って行けます。ギリシアの神々は、日本の神々と較べて、残酷でcrazyなとこ、どっさりありますが、そこは、文化の違いってやつです。多様性を認めて、アレンジして行けば、だんだん許容できるようになります。
 私は、カンディンスキーやクレーのような抽象絵画は、まあだいたい好きですが、これはちょっと無理かもという作品もあります。ジャクスンポロックが、抽象絵画なのかどうかは解りませんが、ポロックのような現代アートは、だいたい無理です。まあ、現代アートの知識もないし、鑑賞できるだけのベースが、築かれてないからだと思っています。抽象絵画であっても、私自身の中で、物語を作り上げることができれば、作品の中に入って行けます。物語が、そこにあるかどうかってことは、結構、決定的なものだと思います。セザンヌの作品でしたら、静物でも、山でも、人物でも、次々に物語りを、自己の内部で、織り上げることができます。絵を見る人の内部に何かを語りかけて来る、それぞれの人の内部の物語を引き出して来る、これは、絵画の大きな魅力だと私は思っています。
 キリスト教やギリシア神話がテーマの絵は、物語がすでに絵の中にあります。が、一人一人の受け止め方は、やっぱり微妙に違います。見る自分が歳を取れば、受け止め方は、また変わって来ます。物語を描かれた絵を見て、ベーシックな鑑賞力を磨き、その後に、現代アートを見るという順序だろうと思います。が、現代アートより、20世紀の現代文学の方が、先だろうという気もします。人生百年時代なんて、キャッチフレーズは、1ミリも信じてませんが、老後の隠居生活なのに、何やかややることがいっぱいあって、これはこれで、happyなことなんだろ、simpleに考えています。

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