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自#169|青春時代のサビは、ふわってふって湧いて来るもの(自由note)

 心理学者の小倉千加子さんのインタビュー記事を読みました。かつて「松田聖子論」を書いて、一世を風靡したフェミニズムの論客と言われた小倉さんは、現在、実家の認定こども園の園長さんをされています。

 私は、中野区にあるS高校に勤めていた時、すぐ隣にある幼稚園と、親しくお付き合いしていました。園長先生を含め、先生方、スタッフの忙しさは、正直、高校の教師とは比較になりません。幼稚園のスケジュールは、すべて分刻みで動いています。幼稚園の先生が、高校の教師に転職することは(資格さえ取得しておけば)容易にできると思いますが、その逆は無理です。高校のような、ある意味、ゆるゆるしたテンポの世界に住み慣れた人間が、その4倍速以上の速さで動いている幼稚園で仕事をすることは、物理的に不可能です。が、小倉さんは、大学教授から、こども園の園長にトラバーユされました。大学教授の仕事以外にも、いろいろとご活躍されていた小倉さんだからこそ、こども園の園長が、こなせているんだろうと想像しています。

 小倉さんは、大阪でお生まれになって、高校まで大阪で教育を受けています。戦争から戻った小倉さんの父親は、大阪社会事業短大で学び、焼け残った三国の街に集まる戦争孤児を教化しようとして、教育に携わります。が、孤児は中学生くらいで、煙草は吸うわ、言うことは聞かないわで、どうにもならないので「もっと、小さな時から教育せなあかん」と理解して、児童館をスタートさせ、その後、幼稚園を開設します。近所の小学校に独身のいい先生がいて、その方を開設スタッフとして引き抜いて来ます。その方が、つまり小倉さんのお母さんです。

 小倉さんが生まれた時には、両親は二人で、三国の幼稚園を経営していました。小倉さんは、小さい頃は、近所に住む父方の祖父母の家に、昼間は預けられていたそうです。お祖母さんはテレビを見るので、小倉さんも、一緒に見ます。
「だから、今でもテレビから離れられない」と、正直に仰っています。が、テレビを見る学者先生だったからこそ、名著「松田聖子論」が、誕生したとも言えます。
 その後、両親は、箕面にもうひとつ幼稚園を開き、父親は箕面、母親は三国の幼稚園をそれぞれ担当して経営していたようです。両親は時間があれば、休みの日も、どういう保育をして行くのかと言った風な教育談義を、楽しそうにしていたそうです。小倉さんも、二歳下の弟も、大阪教育大付属池田小学校に入学し、小中高と、12年間、通います。運動会は、幼稚園の運動会と重なるので、どちらの親も来てくれなかったそうです。運動会の日は、朝、500円をもらって、駅前で巻き寿司を買って、お昼休み、弟と遊動円木に座って、食べていたようです。周りの友だちは、みんな家族で楽しそうに食べているので、そこはやっぱり、とんでもなく寂しかったんだろうと想像できます。

 小倉さんのお母さんは、調理免許も持っているのに、調理が苦手で(まあ、調理の研究をする余裕など、まったくなかったんだろうと推測できます)夕飯のメニューは、すき焼き、エビフライ、とんかつ、牛肉の甘辛炒め、酢豚と、この5品の繰り返しだったそうです。さすがに、このメニューの繰り返しでは、味がしつこすぎて、ちょっと辛いだろうなとは思います。

 小倉さんが、高校3年の時、学園紛争が起こります。小倉さんは、私より二歳上ですが、私は、高校を一度中退していて、1年遅れていますから、高校の学年で言うと、3つ上です。私が高校を中退し、二度目に入った高校でも、やはり3つ上の世代は、学園紛争を経験していました。私は、学園紛争が終わった翌年の春、入学しました。高校入学後、すぐに演劇部に入りましたが、部室には、学園紛争当時、生徒がガリ版で切って作ったアジビラなどが、まだ散乱していました。大阪教育大付属池田高校でも、1年間近く、校舎はバリケードで封鎖され、最後は、機動隊が入った来たそうです。小倉さんは、当時、福田恆存さんの本を愛読していて、中道やや保守くらいの立ち位置だったので、バリケードの外側にいて静観していた様子です。

 小倉さんは父親に「公認会計士になれ」と勧められて、早稲田の商学部を受けますが、受験に失敗します。そこで、合格していた教育学部に進学します。教育学部で、教育心理学を学びます。この頃、教育心理学を学べたのは、早稲田の教育学部だけでした。教育心理学専修には、優秀な生徒が集まっていました。小倉さんは、学部の4年間を終えて、大学院に進みます(心理学は、大学院まで進まないと、カウンセラーの資格はとれません)。

 院生になって、中学時代の先輩が立ち上げた、劇団の旗揚げ公演を見に行って感動し、劇団員と院生の二足のわらじを履くようになります。合宿所兼稽古場は、福生の外人ハウスだったんですが、そこに荷物を運び込み、2年間、劇団員として過ごします。当時の早稲田は、学部も含めて、講義には出なくても、進級・卒業できる学校でしたから、小倉さんは、劇団員として2年間、青春をenjoyすることができたんです。世俗とは無縁の夢のような2年間だったと、小倉さんは回顧しています。が、2年間、劇団にいて、ダンスや歌と云った身体表現は、自分には無理だと冷静に判断します。劇団員では、食えないし、役者としても、モノになりません。そこで、言葉を書く世界に戻って、修士論文を書き、博士課程に進みます。博士課程も無事、修了して、女子短大の先生になります。

 小倉さんの青春時代のサビは、劇団で過ごした2年間です。もしかしたら、人生全体のサビと言ってもいいかもしれません。本当に夢のように、何もかもが面白い、そういう一時期が、人には必要だと思います。私自身のことで言えば、四万十川の河口の小さな町で暮らした4年間が、そういう時代(青春時代のサビ)だったと思っています。いい車にも乗らず(基本、私は歩いていました)恋愛ざたもなく、お茶の稽古に通って、山紫水明の小京都の自然に囲まれて、ちっちゃな図書館で本を借りて読み、S&Wのスピーカーで音楽を聞いて、毎日が、本当に楽しかったです。青春時代のサビは、20代のどこかで、ふわってふって湧いて来るものだと思います。ふわっと、ふって湧いて来たら、それを徹底的に(まあ将来のこともa little考えながら)満喫して欲しいです。

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