自#142|サンセットパーク9(自由note)

 エレン・ブライスは、眠るのに苦労しています。六時間、しっかり眠れると云ったことは、めったにありません。眠れないのは、不安を抱えているからです。母親には、睡眠薬を服用するように、強く勧められています。以前は、睡眠薬も利用していましたが、今は、飲んでません。エレンは、睡眠薬のような丸薬を飲むのは、死の小さな一服を呑み込むようなものだと思っています。睡眠薬を常用すると、日々は忘却と混乱が支配する麻痺状態と化し、頭に綿の玉と丸めた紙切れが詰まっているように感じます。薬に頼るのは、人生を生き延びるために、生活をシャットダウンするようなものです。全身で生きていると感じるために、五感を正常な覚醒状態に保っておきたいんです。以前のような、自己が崩壊した状態には、絶対に戻りたくないと思っています。エレンは、いま・ここにしっかり足をつけて生きて行こうと努力しています。が、自己の内部には、再び、プレッシャーが溜まって来ていると感じています。以前のパニックの疼(うず)きが、喉のわだかまりに、血管をあまりにも速く流れて行く血に、縮こまった心臓の脈拍の狂おしいリズムに、現れて来ています。病院の先生には、「対象のない恐怖ですね」と、指摘されたことがあります。が、そうではないと、エレンは確信しています。これは「生きることなく死んでいくことへの恐怖だ」と。

 ビングに誘われて、サンセットパークに引っ越して来ました。不法占拠であっても、みんなで揃(そろ)ってリスクを冒していると考えると、勇気づけられます。アリスもビングも優しく接してくれます。二人とも寛大で、気を遣ってくれて、友情を示してくれます。共同生活をしているので、以前ほど、寂しさは感じなくなりました。ですが、彼等と一緒にいることが、辛いと思うこともあります。一人で暮らしていれば、自分と他人とを比較したりはしません。自分の苦闘は自己の苦闘であり、自分の失敗も自分の失敗だし、苦しむとしても小さな自分一人のスペースで苦しめば良かったんです。それが今は、情熱も活力もある人たちに囲まれ、彼等の傍にいると、自分が愚鈍なのろまに、どうしようもないゼロ人間になってしまったような気がします。アリスは、この後、博士号を取って、どこかの大学で職に就くだろうし、ジェイクは小さな文芸誌に次々と短編が掲載され、ビングにはバンドがあって、コアなアングラ商売だってあります。なのに、自分だけは、どこにも向かってません。何にもない場所に向かって邁進(まいしん)しています。幼い犬が老いぼれ犬になるより速く、花が咲いて枯れるより速く。絵描きとしては、早々と壁にぶち当たっていて、一日の大半は、空っぽのアパートメントに客を案内することに費やしています。それは、自分には全然向いてない仕事です。この先、誰にもキスされず、愛されず、むなしく生き続けて行くことにきっとなります。突然、この家を燃やしてしまいたいと云う衝動にかられたり、誰かを誘惑したいと思ったり、勤め先の不動産会社の金庫から金を盗み出したいと云う欲求につかまったりもします。

 エレンも、かつては前途有為の女子大生だったことがあります。現在、博士論文を書いているアリスは、スミス女子大のルームメイトでした。二年次を終えた後の夏休み、大学のサミュエルズ教授が、ヴァーモントの南部にサマーハウスを借りて執筆作業をするので、教授夫妻の三人の子供のケアを引き受けました。長女と次女は、七歳と五歳。長男のベンは、十六歳。ベンは、勉強の苦手な生徒で、夏の間、エレンはベンに、英語、アメリカ史代数を教えることになります。二十歳頃のエレンは、二十九歳の現在より、はるかに魅力的な女性でした。ノースリーブの白いタンクトップと黒いスパンデックスショーツの魅惑的な4つ歳上の若い女性に、ベンは個人教授をしてもらうわけです。教授夫妻や妹たちが就寝したあとも、母屋から少し離れた小屋で、二人は過ごしています。性的な間違いが起こらない方が、不思議なくらいです。

 で、間違いは起こりました。エレンとベンとの関係は、恋愛とかではなく、ささやかな性的関係だと、エレンは考えていました。二十歳の女の子と、十六歳の男の子とのささやかな性的関係。避暑地とかでは、そう頻繁でもないでしょうが、まあ、sometimes、あるあるなできごとだろうと想像できます。

 ところで、エレンが、ひと夏の関係を、甘酸っぱく回顧する余裕もなく、次の困難が訪れました。生理が来なかったんです。そのことをアリスに話すと、アリスはエレンと一緒に薬局に行って、妊娠テストキットを買わせます。結果は、陽性。破滅的かつ取り返しのつかない大失敗です。失敗しないように慎重に、用心に用心を重ねたのに、どこかでしくじってしまったんです。ベンは、おそらく初体験。スミス大の優等生のエレンも、それまでほとんど経験はなかったでしょうし(私の推測だと多分二回くらい)お互い、ビギナーです。ビギナー同士のSexには、失敗はつきものなんです。

 十六歳の彼に打ち明けることも、父親の教授に訴えることもできません。二十歳の女子大生が、親に話して相談し、心配をさせることも憚(はばか)られます。子供を産んで、大学をドロップアウトし、未婚の母の軍団に加わる勇気も、持ち合わせていません。結局の所、堕胎する以外に方法はないと決断しました。アリスが車で、クリニックに連れて行ってくれました。すぐ済む単純な処置だと聞かされていたのに、エレンにとっては底なしに恐ろしい屈辱的な体験で、この処置を受けた自分を嫌悪し、悩み、深く後悔してしまいました。

 堕胎手術の4日後、エレンは、ウオッカをボトル半分、睡眠薬を二十錠飲んで、そのまま意識を失います。週末、出かけることになっていたアリスは、急遽、予定を変更して、戻って来たので、倒れていたエレンを病院に運び、胃を洗浄して、エレンは一命を取りとめました。が、正常な人間としてのエレンは終わりを告げました。スミス大は中退し、精神科病棟に移されて入院させられた後、ニューヨークの両親の元に帰り、週に三日、精神科の先生の診察を受け、グループセラピーに参加し、日々、割り当てられた量の薬を飲むことで気分は向上する筈だったのに向上せず、ヴィジュアルスクールに通って、絵を描くようになりましたが、エレンの描く絵は、誰にも語りかけないと酷評されます。

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