自#393「緊急事態宣言で、現在、美術館も博物館も閉まっています。いつでも気軽に見られたものが、今、不可になっていて、それだからこそ、あらためてありがたみを感じることができるような気がします。美術館、博物館巡りは、常設展であれば、さほどお金もかからないし、若い人にとっては、趣味と教養取得を兼ねた、費用対効果の高い娯楽だと思います」

         「たかやん自由ノート393」

 中丸明さんがお書きになった「絵画で読む聖書」を読みました。全部で425ページの単行本をAM8時から読み始め、PM4:00過ぎに読み終えました。普通の本ですと、一時間に50ページくらいは読めます(古典や漢文はspeedが一気に3分の1以下に落ちます)。本の中に、絵がかなり挿入されています。絵のspaceの分、活字は減りますが、絵を見るので、時間は短縮されません。挿入されている絵がモノクロですと、そのspeedは、字を読むのと同じ時間で、絵を確認できます。挿入されている絵が、カラーですと、手間取ります。そもそも、本はモノクロで仕上げてあります。挿入する絵のみカラーだと、全体のバランスも悪く、完全昭和世代の私には、いまひとつ、しっくり来ないです。本を読むリズム感が、カラー印刷の図版のとこで、崩れてしまいます。ですから、現在のカラー印刷の教科書は、正直、扱いにくいです。教科書やテキストの類いは、モノクロでいいと、私は思っています。が、カラー印刷の教科書が、モノクロに戻ることは、あり得ません。先に進んでしまったら、もう後戻りできないんです。日本のマンガは、モノクロです。読者も漫画家も編集者も、みんな賢い人たちです。アメコミのようにマンガをカラーにしてしまうと、マンガを読むリズム感が崩れてしまうことを、きちんと理解しています。カラーは、巻頭の2、3枚で充分って感じです。一般の文芸書が、マンガに勝てないのは、本来の意味の賢さが足りないってとこも、多分、あると私は思っています。

 天地創造からイエスの昇天までの流れを、8時間でおさらいしたことになります。五、六千年くらいの長さを、8時間で駈け抜けたわけです。こういう読書の仕方が、いいのかどうか判りません。高2の時、旧新約聖書を夏休みの30日間かけて読みました。その時は、五、六千年の時間の長さを感じました。たった8時間でも、高校生でしたら、もっと長く感じると思います。歳を取ると、何ごともspeed upしてしまうんです。20年くらい前の話でも、アニメ三、四クール前のついこの前のことって気がします。

 私が初めて飛行機に乗ったのは、大学4年の時です。高校生の頃、飛行機には一生乗らないと、一応、決めていました。ゴルフをやらないとか、クーラーを(自分では)使わないとか、お菓子を食べたり缶ジュースを飲んだりしないとか、お金持ちにならないとか(ですから宝くじは絶対に買いません)は、一応ではなく、固く決意しています。飛行機に乗らないは、社会人になっても守り通せるかどうかは「?」でした。まあ、努力目標ってやつです。鉄の塊(実際はジュラルミンとかだと思いますが)が、空を飛ぶことが信じられないからではありません。どう考えても、飛行機は自然じゃないし、便利すぎると(攻殻機動隊の草薙少佐風に言えば)自分のゴーストが囁(ささや)きかけて来るからです。フルタイムの仕事が終わって、今は、バイト生活ですから、もう飛行機には乗らないつもりです(自分の子供たちが、将来、ハワイで結婚式を挙げるみたいなことになれば、まあやむえず乗りますが)。大学4年の7月に初めて飛行機に乗ったのは、郷里の公務試験を受けるために、短時間で帰省しなければいけなかったからです。

 学生時代の帰省のパターンで、一番、多かったのは、夕方、東京駅で新幹線に乗って、大阪まで行き(在来線を使うのは、もうとても不便になっていました)PM10時頃、大阪南港でフェリーに乗船して徳島に渡り、そこから徳島線、土讃線を乗り継いで、高知に到着するというルートです。だいたい、20時間くらいかかりました。「故郷は遠きにありて思ふもの」の故郷は、20時間くらいかけてやっと辿り着くとこだと、ゴーストが自分に命じていたわけです。が、飛行機ですと、羽田で飛行機に乗ると、50分で高知空港に着いてしまいます。20時間が50分に一気に短縮されるわけです。きつねにつままれたというより、この時間のいきなりの短縮が、何かヘンだと懐疑的になりました。自分が信頼していた空間と時間の概念が、壊れてしまったんです。私は、今だに、この50分で帰省できる便利さには慣れてません(慣れないように努力しているとも言えます)。時間の制約がない時は、新幹線と在来線を使って、10時間くらいかけて帰省するようにしています。伯父の葬式の時、母と二人で、このパターンで帰省したんですが、車両の中で、ずっと大喧嘩をしていました。周囲の乗客に迷惑をかけますし、東京への帰りは、やむなく飛行機に乗りました。親不孝な私は、チェックインした時、喧嘩ができないように、離れた座席にしてもらいました。

 インターネットは、瞬時に世界中の人たちとネットワークを築くことができます。この時空を超えて大発展した文明の機器に対し、やっぱり私は心のどこかで懐疑的になってたりします。ですから、ネットを使わないは、だいたいにおいて守っています。このnoteはネットにupしています。「オマエ、言ってることと、やってることが違うじゃないか」と批判されたら「仰る通りです」と、頭を下げるしかないです。が、人は、どこかで折れ合いながら、上手に生きて行く必要があります。

 私は、クリスチャンではないので、日課として聖書を読んだりはしませんし、食事の時に、主の祈りを唱えたりってこともありません。ただまあ、誰かのために祈ることは、やっぱり尊いことだし、時には必要だとも思っています。別段、宗教にはこだわりがないので、そこらの八幡神社などに学校の帰りに立ち寄って、家族や教え子たちが息災に暮らして行けるように、祈ったりはしています。

 絵や彫刻は折りに触れて、画集や美術集などで見ますし、上野に出向いて、人が少なければ、西洋美術館に入ったりもします(コロナ禍前のここ数年間は、インバウンドの観光客が多く、美術館や博物館には入ってません)。西洋美術館の中庭には、ロダンのアダムとイブの彫刻がありますし、ホールに入れば、ヨハネだって立っています。西洋美術館のロダンの作品は、松方幸次郎さんがせっせと集めた、日本の貴重なお宝です。このnoteを若い方が読んでいて、もしロダンをまだ見てなければ、緊急事態宣言が終わって、西洋美術館がopenしたら、ぜひ見て欲しいです。彫刻は、まあ取り敢えず、不要不急かもしれませんが、若い内に見ておけば、間違いなく人生をゆたかにしてくれる教養のベースのひとつになります。ロダンだけでなく、キリスト教関連のアートは、西洋美術館には沢山あります。ルネサンスの作品は、さすがにありませんが(オークションにルネサンスの作品は、まず出ないと思います) ルーベンスやレンブラントの作品は、何点かあります。レンブラントは版画ですが、イエスが病人を癒やしています。病が癒えるのは、治ると信じているからです。治るか治らないか、どっちなのか自分には判らないといった曖昧な状態では、絶対に治りません。そもそも、宗教は、信じるか信じないかです。アートの偉大な作品は、信じる力を人々に多少なりとも、分け与えてくれます。

いいなと思ったら応援しよう!