【詩集評】西原真奈美『迎え火』

詩の読み方。文学の読み方。本当は、どこをどう読んでもいいはずなのに、いつのまにか型に嵌めてしまう。ある権威によって、あるいは、偏見によって。何かを読み取ろうとしたり、学ぼうとしたり。それは、しばしばその世界を見る目を曇らせる。西原真奈美さんの第一詩集『迎え火』は、そんな自分からわたしを解き放ってくれた。わたしはこの詩集を、きわめて個人的な体験として読んだ。痛みの刻印。ぎりぎりまで己と、あるいは他者と、世界と向き合い、言葉にした詩は、激しい痛みを伴う。だが、本当の意味で書き手を、読み手を蘇生させるのは、そうした詩ではないのか。たとえば、「朔のすみか」。

「「食べられるものが なにもないの」/あなたは店の中で/不意に立ち止まる/床に沈んだカートは/檻のように冷たくて/黙りこんだ あなたを載せて帰る/(何をしたんだろう/何をしなかったんだろう)私は/身をよじるように食べ物から離れてゆく/緩慢な死と引き換えの今を/注意深く 選び取るために」

母と娘、だろう。娘は、食べられないのだ。それは、次の「日課」という詩を読んでもわかる。わたしの胸に、鋭い痛みが走る。わたしに、こうした母はいなかった。いつも、ひとりだった。でも、なぜだろう。西原さんの詩を読んで、わたしは何か救われたような気持ちになったのだ。母は、わたしを見ていてくれた、きっとそうに違いない、と。それから、「ピエタ」。いちばん好きな詩だ。わたしの左腕が疼く。

「左腕の内側 刃を引いた右手/(押して切るのは肉 引くのは魚 刃物の使い方)/ならば/ひっそりと細まったあなたの腕は/陽射しを幾重にも拒んだ/波形の陰影の底/盲いた深海の真っ白な魚/等間隔に印された/ケロイドにならない細い動線/そこから滴るものが/ピエタの姿にあなたを縁どる/溢乳をぬぐった古いガーゼハンカチ/赤い刺繡の名前のふくらみ/たどるように/あなたにふれたい」

あの行為が、こんなに美しく、誰かの手によって書かれている。それは驚異だった。わたしも何度も書こうとしたが、力不足で駄目だった。西原さんの詩の最後の二行で、涙が出た。ああ、詩はこうやって書くのか。痛みは、このように表現するのか、と。こういう澄んだ美しさは、すべてを受け止めた詩人にしか作ることはできないだろう。それにしても、この『迎え火』という詩集は、構成が見事である。とくに最後の二編、「いつか砕けるものとして」と「オラシオン 夏の庭」。

「いつか あそこに自分もいるのだ/砕かれるために/いつか砕けるものとして」「いのちに満ち 諦めることを知らない夏の庭に/「閉じよ」と告げるために/すべての草いきれに/落日の緞帳を下すために」。見事な、死と再生の一冊である。死ななければ、蘇生はない。西原さんは、この詩集を編むまでに、何度死んだのだろうか。それは、詩人にとっては恩寵である。だが、生身のひとりの人間として、思いを馳せずにはいられない。なぜ、ここまで苦しまなければならないのか。だが、西原真奈美は、詩人であったからこそ、『迎え火』一冊によって、蘇生することが可能になったのだ。読み手であるわたしたちは、幸福にもその恩恵に与ることができる。

最後に、繰り返しになるが、わたしはこの詩集を、きわめて個人的な体験として読んだ。苦しくて、痛かった。だが、そういう体験こそ、詩の醍醐味なのではないだろうか。詩を書いていてよかった、あるいは詩を読む人間でよかった。西原真奈美さんの『迎え火』は、そういう原点に立ち返らせてくれた。詩は、祈りであるということに。


いいなと思ったら応援しよう!