【詩集評】滝本政博『エンプティチェア』

2023年11月10日、詩人の滝本政博さんの第一詩集『エンプティチェア』が、土曜美術社出版販売から刊行された。いよいよ、待ちに待った、という感じである。ただ、ひたすら、嬉しい。

私が、最初に滝本政博さんの詩で衝撃を受けたのは、ここにも収められている「雷鳴」であった。たしか初出は「ココア共和国」であったと思う。「都心のラブホテルから/二人で歩き出したとき/トラックの運転手がわたしたちを見て汚い野次を飛ばした」から始まる、その世界に一気に引き込まれた。息もできなかった。
「あなたは叫んだのだ/それは力/それは痛み/何度でもそこへ戻ってゆく」で締めくくられた詩に、率直に言って私は圧倒されたのである。私の、どちらかと言うと頭でっかちな、小賢しい文学観は、見事に粉砕された。そこにあるのは、紛れもなく大人の世界だった。そして、腹の底から出た声、言葉たちであった。

以後、私にとって滝本さんは、最も憧れる詩人のひとりとなった。第3回秋吉久美子賞を受賞された時も、「ええ、もう、それは当然でしょう」と、我がことのように嬉しかった。
私は、滝本さんにお会いしたことはない。けれども、『エンプティチェア』には、滝本さんの声が隅々まで響き渡っている。それがたまらなく、心地よい。時に、ドキドキする。この、無味乾燥な、無機質な時代において、人間の発する言葉本来が持つ「声」、そしてその温度を感じさせる詩というのは、そうそうあるものではない。

本詩集は、ⅠとⅡに分かれている。Ⅱで圧巻なのは、やはり「夜の火事」だろう。詩にかぎらず、文学は、きわめて個人的なことを普遍化する作業でもある。言い換えるならば、「個」を超えた世界を構築する、ということだ。しかしここには、逆の命題も成り立つ。それは、個人の体験の重さを超えるものはこの世にはない、ということだ。

小林秀雄は、「歴史について」のなかで、次のように言っている。「子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どのような場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為すところを知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに」。

滝本さんは、隣家の火事が我が家に燃え移るという体験を、ここで詩の世界に結晶させている。そこに、生半可な言葉を挟む余地はない。「上手く感想は言えない/俺はそれを見ていたのだ/善悪を無視して火はいつまでも燃え続けた/人々を明るく照らした/火の粉が盛大に舞い近隣の人は右往左往した/外は大風でした/赤く染まる夜がありました/火が成し遂げるすべてを見ていました」。

滝本さんが本当の意味で詩人になったのは、実にここからではないのか、とさえ思う。文学とは、何と残酷な恵みをもたらすのだろうか。最も辛い体験と引き換えに誕生した詩を、私たちは受け取っている。私は、感謝とともに、それを受け取る。そして、これからの滝本政博さんのますますの御活躍を、祈らずにはいられない。自分もはやく追いつきたい、と思いながら。



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