つくる側の苦しみ、つかう側の幸せ
おはようございます!
つくりすぎのバカさ加減
と私は言いました。
栄養ドリンクが
大きく値崩れしたときです。
OTCメーカーは栄養ドリンクをつくりすぎ、
小売店に押し込むものだから、
値が大きく崩れていました。
営業の人はノルマに追われて、
小売店に頼み込んで
半年、一年分の在庫を
抱えてもらっていました。
時には自分で借金をして
買っていました。
売れないのに売るのだから値は崩れます。
値が崩れれば、利益は出ません。
利益なき繁忙に、
「つくりすぎのバカさ加減」
と言ったのです。
*
欲しいものが、欲しいわ。
1988年の西武百貨店のコピーです。
糸井重里さんの作です
需要を供給が上回り、
欲しいものがないことを表した
このコピーは飽食の時代の象徴です。
この時に、供給サイドは辛いと思いました。
住むところがない、
着るものがない、
食べ物がない時は
頑張ってつくれば感謝されました。
今は、なにをつくっても、
それ見たことある、
それ持っている、
他と違う特徴は?
とすぐに問い詰められてしまいます。
このような環境で、働くのはつらい。
需要サイドにとっては天国ですが、
供給サイドにとっては地獄です。
*
そして生成AIです。
自分そっくりの映像が作られ、
俳優が肖像権を侵されると
ストライキをしています。
将棋の世界やスポーツの世界が、
劇的なストーリー展開で
生成AI動画の世界に
取り込まれるかもしれません。
供給側の苦労は
さらに増していきそうです。
では、需要側はどうかと言えば、安泰です。
物を使って便利だなあとか、
スポーツをして爽快だなあ
と思う感情は
生成AIに取って代わられることは
なさそうです。
自分で体験し、
感じることは無くなりません。
自分で感じることを、
何かに代替されるイノベーションは
今のところ私は聞いたことがありません。
こうして考えると
「我思う、ゆえに我あり」といったデカルトは、
本質をついていたのでしょう。
今日もよろしくお願いします。
安島
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