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「得宗」とは? 巧みに仕組まれた北条氏のブランド戦略
みなさん!鎌倉幕府最後の得宗、北条高時です。今回は「得宗」という響きのかっこいい言葉に注目してみたいと思います。そもそも「得宗」とは、私たち北条家の嫡流だけに与えられた超特別な称号なんですけど……正直なところ、私自身、その由来とかあんまり深く考えたことなかったんです。
でも、せっかくこうしてnoteを書くことにしたので「得宗」って一体どういう意味なのか、そこに仕組まれたブランド戦略を、みなさんと一緒に紐解いていこうと思います。
北条得宗家歴代について
まずは歴代の得宗、北条氏嫡流をざっくりと確認していきましょう。
北条義時(1163ー1224):
北条時政次男。江間小四郎。2代執権。比企氏や和田氏を滅ぼし、承久の乱で後鳥羽院に勝利し、北条家の権力基盤を確立北条泰時(1183ー1242):
義時の長男。承久の乱では幕府軍の総大将をつとめる。3代執権として評定衆を設置し「御成敗式目」を制定。北条時氏(1204-1230)
泰時の長男。4代執権を期待されていたが六波羅探題在職中に病にかかり、鎌倉で没北条経時(1224ー1246):
時氏の長男。4代執権をつとめ将軍周辺の反執権派を抑えこむが若くして病死北条時頼(1227ー1263):
経時の弟。5代執権として得宗の権威を高め、三浦氏を滅ぼす。質素倹約で「鉢の木」の逸話も有名北条時宗(1251ー1284):
時頼の次男で嫡流。8代執権として蒙古襲来から日本を守り抜くも、その心労が祟り若くして過労死北条貞時(1272ー1311)
時宗の嫡男。9代執権として得宗専制政治を確立。永仁の徳政令を発布するも失敗。その後は不摂生が祟り病死北条高時(1316 ー1326)
貞時の三男。9代執権。鎌倉幕府最期の得宗として東勝寺で一族門葉と共に自害
こうしてみると得宗歴代は、高時以外みんな名君であったことがわかりますね(苦笑)
得宗家の始まりは?
鎌倉北条氏の始まり時政さまですが、得宗の始まりは義時公です。まずはそのあたりをみていきましょう。
北条の御初代様・時政さまはご存知の通り義時公や政子さまのお父上です。義時公は時政さまの次男で、当初、嫡男は兄の宗時さまだったようです。ところが宗時さまは、源頼朝公が旗揚げした際に戦死しています。
義時公はというと、元々「江間」という別の家名で呼ばれていました。時政さまは宗時さま亡き後、義時公ではなく後妻の牧の方との間に生まれた北条政範を嫡男として考えていたんです。北条は政範、江間は義時公。それが既定路線でした。
とはいえ、義時公は頼朝公ととても親しかったんです。『吾妻鏡』にも「家子」、つまり頼朝公にとって非常に近しい存在として記されています。頼朝公は時政さまよりも、むしろ義理の弟である義時公を信頼し、特別扱いしていたみたいです。
頼朝公、頼家公がなくなり、実朝公が鎌倉殿になってしばらく、ここで急展開! 政範が急死しちゃったのです。すると時政さまと牧の方が次に何をしたかというと……なんと!実朝公を排除して、頼朝公の猶子だった平賀朝雅を新将軍にしようと画策したんです。平賀朝雅の正室は時政さまと牧の方の娘を正室にしていますしその方が好都合だったのかもです。
でも、さすがにこれはヤバいでしょ。結局、この陰謀は政子さまや義時公にバレて、時政さまは失脚することになります。「牧氏事件」と呼ばれるこの騒動、牧の方と前妻の子どもたちの間の微妙な関係が背景にあったのかもしれません。
ともかく、これ以後は義時公と政子さまが実質的な力を持って鎌倉を統率することになります。
「得宗」とはそもそも何か?
では、あらためて「得宗」について考えてみましょう。南北朝時代の『東寺百合文書』には「得宗は義時の法名である」と明示したものがあるそうです。また『梅松論』には『北条嫡流を徳崇という」と書いてあります。ちなみにWiki先生はこう説明しています。
得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。
うーん、「得宗」が行政用語だとは知りませんでした。それと、先にお話ししたように、時政さまを初代得宗とするのは違和感がありますね。北条にとってはダーティな時政さまよりも義時公! 清廉潔白な泰時公なんて、頼朝公や政子さま、義時公の仏事は欠かさず行ったけど、時政さまは完全スルーだったという話もありますから。
それはともかく、むかし読んだ本には「得宗」は北条義時公の法名と書かれていた記憶があります。でも、義時公の法名は「観海」で「得宗」ではありませんね。
ちなみに北条高時が祀られている宝戒寺には「徳祟大権現」と呼ばれる祠があリます。ですから、私は正しくは「徳崇」で、それが「徳宗」「得宗」と書かれるようになったんだと思っていました。じゃあ「徳祟って何なんだよ」と聞かれたら……「いや、義時公の嫡流でむにゃむにゃむにゃ」とお茶を濁すしかないんですがね。
ただ、細川重男さんの『北条氏と鎌倉幕府』(講談社)という書物に「得宗」について興味深い説明が載っています。 細川さんは「得宗」は「徳崇」の当て字、略字化で、5代執権時頼公が義時公に贈った「追号」ではないか、と推定しておられます。
「徳崇」は北条義時の追号だった?
細川重雄さんは、「徳崇」という名前が時頼公以後の得宗の法名と深く関係しているのではないかと指摘しています。これ、気になりますよね! そこで、時頼公以降の法名をざっと並べてみました。
時頼公:道崇
時宗公:道杲
貞時公:崇暁 → のちに崇演
私(高時):崇鑑
ね?みんな「崇」の字が入っているんです。ただ、ここで「おや?」と思うのが、あの有名な崇徳天皇の「崇」と同じ字だってことです。最強の怨霊で知られる崇徳天皇とつながってるなんて、なんだか意味深……いや、多分、深い意味はないと思いますけど(笑)。
ところで、この「崇」の字が法名に初めて登場するのは時頼公の代。興味深いことに、時頼公は最初から家督を継ぐ予定じゃなかったんです。4代執権・北条経時公(兄上ですね)が重病になり、急遽、20歳で執権に就任しました。でも、この継承劇には周囲から賛否があったようです。特に名越光時という人物が、「俺は義時公の孫だ!時頼は曾孫だ!」なんて言い張ったりして。つまり、「俺の方が血筋が濃いぞ!」って主張したわけです。
名越流は義時公の次弟・北条朝時を祖とする一派で、嫡流に対する対抗心が強かったんです。光時は藤原頼経公らと手を組んで時頼公を倒そうと画策しましたが、結果は失敗。この騒動、いわゆる「宮騒動」と呼ばれる事件です。
こうした背景もあってか、時頼公は地位の安定に尽力します。一族の長老・北条重時の娘を妻に迎えるなど、縁戚関係を強化。さらに、自らが帰依していた禅宗の教えに基づき、義時公に「徳崇」の追号を贈ったと言われています。これ、自分こそが義時公の正統な後継者だとアピールするためだったのではないか、という見立てです。
その後、時頼公の影響で嫡流の法名には「崇」の字が定着。結果、北条家嫡流は「徳崇」「徳宗」、そして「得宗」と呼ばれるようになった……これが細川先生の仮説です。
ただね、ちょっとした例外もあります。時宗公の法名が「道杲」で、「崇」が入っていないんです。これについては、時宗公が急病に倒れて出家したその日に亡くなってしまったため、法名に「崇」を入れる余裕がなかったのではないか、と細川さんは推測しています。また、時宗公の頃にはまだ「崇」の字がそこまで重要視されていなかった可能性もある、とか。もしそうなら、後世の私が「崇●」の法名を贈ってあげてもよかったのかも……なんて、勝手に思ったりもします。
北条義時は武内宿禰の生まれ変わり?
ここでちょっとスピリチュアルなお話をしてみようと思います。実はですね、義時公が「武内宿禰(たけのうちのすくね)の生まれ変わり」だって話をご存じですか?
武内宿禰は、日本神話や古代史に登場する伝説的な人物です。仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇など5代にわたり仕えたとされています。その長寿や忠誠心から、古代日本の理想的な臣下像とされている人物です。義時公はこの武内宿禰の生まれ変わりだというのです。それを記すのが『古今著聞集』です。
ある人が八幡神社に参籠した日の夜に不思議な夢をみました。夢に現れたの白髪の老人。その老人が神社の御殿の前に佇んでいると、御殿の方から「これから世は乱れる。武内よ、時政の子となりて世を治めよ」という八幡神の声がしたというのです。「え、これってつまり、義時公が武内宿禰の生まれ変わりだってことじゃん!」 夢から覚めたその人はたいそう驚いたというのです。
現代の感覚では「そんな話、信じられない!」ってなるかもしれませんけど、これがふつうに信じられるのが中世なんです。『古今著聞集』は『今昔物語』や『宇治拾遺物語』と並ぶ日本三大説話集のひとつです。少なくとも義時公が武内宿禰の生まれ変わりだということをみなが信じていたということはいえるでしょう。
また、平政連という御内人が内管領・長崎円喜に宛てた『平政連諫草』という文書には、こう記されています。「義時公は武内宿禰」「泰時公は救世観音」「時頼公は地蔵菩薩」――おいおい、これ本当かよ!なんてつっこむのは野暮です。平政連的には超真剣な話だったみたいです。そういえば、わたしも母上から「あなたの先祖は素晴らしい方々なのよ」とか言われて育った記憶があります。やっぱり義時公ってすごいんだぞ、その義時公の血を受け継ぐ「得宗」は特別なんだぞと。
北条氏の巧みなブランド戦略
スピリチュアルな話はともかくとして、これ、明らかに北条得宗家の権力を強化するための巧妙なブランディングですよね。おそらく時頼公や御内人たちが、得宗による統治が神意によるものであることをアピールし、一族の結束を固めて余計な内紛が起きないようにと考えたのではないでしょうか。
北条のブランド戦略が奏功したのか、あの天皇公家至上主義の権化・北畠親房ですら義時公、泰時公を徳の高い名執権と評価しています。現代人の感覚からすれば、北条氏といえばライバルをどんどん蹴落として権力を手中にした陰湿なイメージですし、「鎌倉殿の13人」の義時公も晩年はダークサイドに墜ちていってました。でも、中世の人々からみた北条氏の好感度はそんなに悪くはなかったんです。なんせ、平和な時代でしたし。だからこそ戦国時代の小田原北条氏は「北条」を名乗ったわけですよ。
……ところが私、高時はというと、その北条ブランドを盛大にぶち壊しちゃったんですよね。闘犬とか田楽とか、まぁ趣味に全力投球しちゃったわけでして。これは「悪いのはぜんぶ暗愚な相模入道高時!」「だから鎌倉は滅んで当然!」という易姓革命に影響されまくりの『太平記』史観のせいですが、でも太守として全く責任はないかと言われれば、やはり反省しきりではあります。
話が逸れましたが、細川重男さんの『北条氏と鎌倉幕府』は本当にわかりやすくて面白い本です。鎌倉時代や北条家に興味がある方は、ぜひ一度読んでみてください。きっとハマります。