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なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのか? その原因を考えてみた
私が生きていたころ、なんだか時代がゴロゴロと大波のように変わっていく気配を感じていました。そしてその波に呑まれて、そのまんま鎌倉幕府は沈没してしまったわけです。いやぁ、自分でも少し早い気がしました。でも、「どうして沈んだの?」と聞かれるとこれがまた一筋縄ではいかない理由があったんです。今回はそのあたりをお話ししますね。
蒙古襲来で緊急事態宣言
ええ、蒙古襲来について話してほしいんですか。そうです、あれはまるで試験には合格したけど、答案がギリギリだったときの気分に似ていますね。確かに、我々は日本を守りきりました。しかしどうも、その後の展開がしっくりこなかったのです。
まず、蒙古軍の襲来で対馬や壱岐は甚大な被害を受けました。博多湾でも熾烈な戦いが繰り広げられ、西国の武士たちが一丸となって立ち向かいました。我々の勇士たちは命がけで戦い、国を守ったのです! 素晴らしいことではありませんか。ですが、この戦いは防衛戦争ゆえ、武功をあげた武士たちに報いる恩賞が用意できず……「いやいや、戦ったんだから何かしらもらえるものがあるでしょ」と不満を抱く者も出てきます。それでも無い袖はふれませんから我慢してもらうしかなかったわけですが、幕府への信頼が少しずつ揺らいでいったようです。
そのうえ、文永の役が終わった後には、なんと「異国警護番役」なるものまで御家人に課されることになりました。筑前や長門などの防衛拠点で交代制で警備をするんですけど、これが地味にきつい仕事でした。しかも、その費用ですよ!食事代、宿泊費、防御工事費…全部、基本的には自腹。ええ、自腹ですよ!幕府としても見かねて、鎌倉や京都での当番役を免除するなどの対策を取りましたが、「いやいや、そっちを免除されても今の負担が減るわけじゃないし」という声が渦巻いていました。
ところで、元のフビライはなんと3回目の日本遠征を計画していました。まったく迷惑な話ですが、そんなわけで国防を緩めるわけにはいきませんでした。いわば「緊急事態宣言」がずっと出ているようなものです。当時は「いっそ、こっちから高麗に攻め込んでしまう?」なんて案まで出ていたそうです。ただ、その無謀さと費用を考えるとできるものではありません。しかし現代もそうですが、防衛費というのは嵩むものですね。特に専守防衛はたいへんな金がかかります。北朝鮮のように核兵器でももてば……いやいや、我が国は唯一の被爆国ですし、そういうわけにもいきません。
失礼、話がそれました。蒙古を撃退した戦いは確かに「勝利」でした。しかし、その勝利から得られたものは後世の「神州不滅」という非科学的で根拠のない自信くらいのものです。御家人はどんどん疲弊していき、その不満は幕府に向かうことになります。そしてこれが鎌倉幕府滅亡の遠因になったことは確かでしょう。
惣領制がぶっ壊れて御家人がピンチに
蒙古襲来への備えで国力は疲弊したわけですが、一方で武家社会が抱える根本的な問題もありました。それは土地相続制度の破綻です。
御家人たちは、もともと頼朝公の時代以来の「御恩と奉公」の仕組みの下で日々精一杯生き抜いてきたのです。頼朝公が与えた恩地(領地)を「一所懸命」(命がけ)で守り続けるのが武家というものでした。はじめはよかったんです。しかし、子どもたちへの相続の段階に入ると、この領地がどんどん分割されてしまうというのが最大の問題でした。相続のたびに土地が細分化されるため、気づけば一家の収入が目減りし、農作物を育てる余裕もなくなる——まるで「大福を半分ずつ切り分けていたら最終的に一人分が米粒くらいになった」ような感覚ですね。これでは、いくら汗水流してもやりきれません。
新たな土地を開墾する余地があった頃は良かったのですが、それも限界があります。幕府も闕所といって、空いている土地をあてがうなどもしてきましたが、それでは到底追いつけません。戦国時代のように他の大名の領地を奪いとるというわけにもいきませんしね。
さらに、お天道様まで責めたくなります。当時は「気候変動」による寒冷期が訪れており、農作物の収穫量が落ち込む年が続いたのです。「お米が採れません!」「ごまかし効きません!」との嘆きが届くたび、私の胸は締め付けられました。
今振り返ってみても、御家人たちが窮乏に喘ぐ中、鎌倉幕府として効果的な施策を打ち出すことができなかったのは実に悔やまれることです。とはいえ、これはちょっとやそっとの財政出動や景気対策ではどうにもできない根本的な問題だったのです。
貨幣経済の発達。徳政令も裏目に
もう一つ、多くの御家人を追い詰めたのが貨幣経済の普及です。それまで物々交換が主流だった日本に、大量の宋銭(中国の貨幣)が流入して、寺社や市場を中心にお金が使われるようになりました。この変化で都市部は活気づきましたが、土地に頼る自給自足型の生活をしていた御家人たちには酷な状況でした。
なぜか? 生活費や戦費をまかなうための借金がかさみ、不作の年には年貢を銭で納める負担がのしかかるのです。つまり、彼らはまるで出口の見えない迷路に迷い込んだような感覚だったでしょう。
そんな中、幕府が打ち出したのがあの「徳政令」です。「借金帳消しで負債もスッキリ、土地も取り戻せる!」みたいな期待を込めた政策で、これで御家人たちに救いの手を差し伸べた…はずでした。
しかし政治はそんなに甘くありません。「人は借金してこそ回る世の中」なんて皮肉なことにも気づかされました。借り手の肩を持つ一方で、貸し手からすれば「二度と返ってくる気配なし!」という最悪の事態です。結果として、借金をしたくてももう貸してくれる人がいなくなり、御家人たちの生活はますます立ち行かなくなったのです。
得宗専制、御内人への不満が爆発
それ以上に執権になった私が直面していたのは、得宗専制政治への御家人たちの不満でした。頼朝公の時代には「鎌倉殿の前ではみんな平等!」でした。3代執権・北条泰時の頃にはみんな仲良く合議制で政治をすすめていました。しかし、そんな理想もどこへやら、気づけば政治は得宗(つまり私の家系)中心となり、さらに御内人たちが大きな顔をして仕切るようになっていました。この仕組みを作ったのは5代執権・北条時頼公で、幕府内の争いを防ぐためとはいえ、結果的には得宗が権力を一手に握る状況が出来上がったのです。まあ、言ってしまえば将来の私の苦労の種を蒔いていったわけですね。
蒙古襲来で日本が危機的状況に陥った際、幕府は「鎮西探題」や「長門探題」を設置し西国への軍事指揮権の強化を図りました。この役職にはもちろん我が北条一門が当たります。さらに全国の守護職には多くの御内人が就くようになりました。その目的は「地方統治をスムーズにする」ためだったのですが、御家人たちには「地方の利権をがっちりキープ」しているように見えたのかもしません。「北条だけが得をしてるではないか!」と映ったようですね。まあ、気持ちは分かりますが、こちらにだって事情があるのですよ。
特に問題だったのが政治運営のスタイルです。得宗家と御内人が集まって、いわば秘密の「お茶会」状態で物事を決めるようなやり方に、多くの御家人たちが内心、不満に思っていました。しかも、そのお茶会の主役は太守たる私ではなく、側近である長崎円喜とその息子、高資でした。とくに高資は私の目も届かないところで好き勝手に権力を振り回していたようで、最終的には私の立場すら危うくする始末です。とはいえ、生まれつき病弱であった私は彼らに頼るしかなく、正直「どうにかしてくれ、大人たち!」という気分でした。
悪党の跋扈、安藤氏の乱……
そんな中、畿内や地方では「悪党」と呼ばれる反抗的な勢力が台頭し始めました。地頭や荘園領主に逆らい、年貢の徴収を妨害するなど、彼らの行動には手を焼くばかり。これでもう混乱し放題。楠木正成とか、赤松円心とか、ああいう連中の狼藉に、「どうしてこうなった」とため息ばかりの日々が続きました。
そして致命的だったのが「安藤氏の乱」です。北の端に派遣された得宗家の御内人、安藤氏の親族同士の争いがきっかけで起きた事件です。この争いには蝦夷勢力が絡み、ただの親族問題が大きな戦乱に発展しました。話し合いで解決しろということで、当初は幕府が裁定に乗り出したのですが、なんと内管領の長崎高資が双方から賄賂を受け取り、問題解決をおざなりにしてしまいます。その結果、問題はますますこじれ、8年もの間収拾がつかない大混乱に陥りました。兵を送っても反乱軍を武力で制圧できなかったため、最終的にどうにか和談で決着させましたが、得宗家の威信は地に落ちました? 「あれ? 幕府って実はそんなに強くないのでは?」と見られるようになったのです。
この一件、後醍醐天皇もきっと「ほうほう、これはチャンス」と見ていたことでしょう。いま振り返ると、まさに幕府崩壊のきっかけとして語られる出来事だったように思います。
後醍醐天皇の登場
後醍醐天皇という人物が歴史の大舞台に颯爽と現れたのは、まさに絶妙のタイミングでした。後醍醐天皇は、もともと「大覚寺統」と「持明院統」という二つの皇統の間で気まずいバランスを保つため臨時に即位した、いわばピンチヒッター的な存在でした。ですから、自分の血筋に皇統を継がせることは許されていません。
そこで後醍醐天皇は「幕府を倒して公家中心の新しい国を作る!」なんて大義名分を掲げ、討幕に動き出したのです。しかし、それは表向きの理由で本心は「俺の皇統をなんとか延命しないとヤバいぞ」という切迫感からの行動だったのではないでしょうか。もっとも、後醍醐天皇が実際にどこまで綿密な計画を持っていたのか。そのあたりは私にもわかりません。むしろ、その場の勢いで動いてしまったというのが実情だと思います。混乱していたとはいえ、後醍醐天皇は兵を持ちませんし、幕府の力はまだまだ盤石でしたからね。
ところが、この時に後醍醐天皇の側について動いたのが、例の「悪党」と呼ばれていた連中です。楠木正成や赤松円心らは意外にも粘り強く戦った結果、幕府側も思わぬ苦戦を強いられました。その過程で、世間の人々が「やっぱり鎌倉幕府ってそんなに大したことないぞ」と確信しちゃったわけです。
幕府も後醍醐天皇を一度は隠岐に流し、光厳天皇に即位してもらって新しい世をつくろうとしました。しかし天皇はちゃっかり隠岐を脱出、全国に倒幕の綸旨をばら撒きました。その結果、足利高氏が裏切り、新田義貞が裏切り……かくして鎌倉幕府と北条氏は、あれよあれよという間に滅亡への道を辿って行ったのです。
鎌倉幕府が滅亡したのは高時が暗愚だったからではない!
ということで鎌倉幕府滅亡の原因を探ってまいりましたがいかがでしたでしょうか。ざっくり列挙すると、こんな感じでしょうか。
蒙古襲来による国難
分割相続による御家人の零細化
気候変動による全国的な不作
貨幣経済の発展による御家人の窮乏
得宗専制政治、御内人への不満
悪党の跋扈、安藤氏の乱
後醍醐天皇の野心
こうした要素が絡み合って時代の流れとなり、鎌倉は滅んだというわけですが、一言でいえば、御家人の困窮に幕府が無策だったということなんでしょう。
鎌倉幕府が滅んだ理由としてよく言われるのが、「北条高時が暗愚、暴君だったから」というものです。でも、そんな単純なものではないのですよ。もちろん、高時は祖父・時宗公や父・貞時公とは違って凡庸な人でした。加えて生来病弱であり、幕政の実権は長崎父子に牛耳られてしまいました。そもそも政治よりも文化を愛するタイプでしたし、もしかしたら武家を束ねるキャラクターではなかったのかもしません。とはいえ、鎌倉が滅んだ理由はの幕府が制度疲労を起こしていたからであって、高時個人の責任ではありません。歴史の大きな流れの結果であったといってよいでしょう。
まとめ:そして得宗高時、思うところがあるのです
さて、歴史の流れに翻弄された鎌倉幕府のについて書きましたが、いかがだったでしょうか。私は否応もなく鎌倉の最期を看取る役として「舞台」に立たされたのですが、思えば主役というよりは観客の気分に近いものでした。これは私に与えられた「宿命」だったのかもしれません。「もしも帝が後醍醐天皇でなかったら…」「もしも足利高氏が裏切らなかったら……」などと考えていても仕方がないように思います。
それでも私、高時が「徳宗大権現」としてひっそり存在する以上、この国の行く末に心ばかりの祈りを捧げながら、歴史noteを気まぐれに綴っていきたいと思います。だって、せっかくの神様ですから、なりきりですから、少しは役に立たないと申し訳ない気がしますからね。