死刑囚の表現
8年前に書いたエッセイですが、自分として印象的だったので、掲載させてください〜。
死刑執行の知らせは、その日の朝にくるらしい。そして、知らせを伝えられてからたった1時間くらいで執行されるという。
その日は死刑が確定されてから数年後の時もあれば十数年後の時もあるらしい。
明日かもしれない、明日かもしれない、という毎日を独房で生きる、生きた死刑囚の絵画展。
ずっと行きたいと思っていながら、鞆の浦で遠いしなかなか行けなかったんですが、カリンちゃんが観に行った感想を読んで背中を押された気がして、昨日行ってきました。
見終わったあとのあのなんともいえない気持ち。
暗いわけでもなく、もちろん楽しいわけでもなく…正直になってたどり着いた感想は、
怖かった。
なにが怖かったかっていうと、普通だったから。
絵をかくことが楽しいとわかって、絵をかきつづけた。
花や独房の景色や、仏様や、龍…思い出の風景、自分の心の中を表した絵…。
その内容も、表現方法も、なんら普通だったように感じ取りました。
わたしは、もっともっと異常で、暗く恐ろしいものかと思ってたからかもしれないけど…
素朴に花を見て細かくスケッチしてたし、感情表現も思春期的というか、なにを伝えたいのかすごくわかりやすくて、わかりやすすぎて妙に生々しかった。
「死刑囚の作品展」と表記されてなかったら、絵が好きで趣味な人達と、どこにでもいる悩みや苦しみを抱えた思春期の少年少女がかいた絵だと思った気がする。
そのくらいわたしには「普通」に写った。
それがショックだった。
死刑囚は悪魔でも化け物でもなく、「普通」の感性を持つ「普通」の人と変わりがない人なんだと思わざるを得なかった。
「極限の芸術」なんてドラマチックにポスターには書いてあったけど、確かにそれは状況からしてそうなんだろうけど、「極限」というなんか激しく追い詰められたものでなく、むしろまだまだ表にさらけ出しきれてない、静かで、頼りなくておとなしいもののように感じた。
いつ死刑になるかわからない状況だと、そうなるのかもしれないけど、わたしには、死刑囚が描いた絵が身近に感じすぎて怖かった。
つまりは、たいして差はない。
ほんの少しの違い。
ほんの少しの違いで、人は殺人者になる。
まぁ、こんな風に書くと生きてくことが怖くなってしまうけど、かといって必ずきっかけはあるんだと思う。
それで、きっかけよりももっと重要なのは、そのきっかけに巡り合った時に、自分がどう考えどう方法を選択するか。
それで大きく違ってくるんじゃないかと思った。
昨日、西条の田舎で、23歳の青年が自分のおじいちゃんといとこのおじちゃん(?)を刺殺した事件があったけど、青年の主張は「両親が自分のことでとがめられて、いじめられてると思ったから」ていうものだったらしい。
そう感じ取ることもあるだろうし、実際そうだったのかもしれない。けど、問題は、「だから、殺す」という選択肢。
両親のことは大切に思ってたかもしれない青年が殺人を犯したのは、青年が異常だからでも非情だからでもなくて、「選択の狭さ」つまり「思考の狭さ」だったんだと思う。
死刑囚の絵から感じ取ったものはそれだった気がする。
「思考の狭さ」
それだけでは罪に及ばないようで、それは人を追い詰めたり、自分を追い詰めるほどの恐ろしいものなんだと思う。
そしてそれは誰もが陥る可能性がある状態。
思考が狭い状態の時に、最善の解決方法、相手を思いやる余裕や、結果を想像する、なんてことは考えられない。
自分のせいで親がいじめられてると感じるなら、その原因である稲刈りをしぶしぶでも手伝う方法もあるし、二人に冷静に思いを伝える方法もある。あきらめて、田舎はこういう人間がいるもんだと受け入れる方法もあるし、原因である自分がそこを実家を出る方法もある。
だけど、それには労力と柔軟な行動力が必要。
良い変化だとしても、必ず痛みや苦労が伴う。
そしておそらく、その青年にはそうする元気がなかった。
どの方法よりも殺す方法を選んだ。
それが一番簡単な方法に思えたのか、それが一番良い方法に思えたのか。
どっちにしても狭い判断だったんだと思う。
これは殺人事件の話だけど、日常生活でも同じこと。
殺人事件と日常を同じにするなんて笑う人もいるかもしれないけど、現に殺人事件は日常の中で起こるんだから。
思考の狭さからくる間違った判断。
人間完璧な人なんかいないんだから当たり前。
だから、そこで反省して、落ち込みすぎず、自分も誰も責めない、つぎつぎ!
って思えたらいいけど、思考が狭いままだとまた同じ負のスパイラルに陥ってく…
殺人って実はそんなありきたりなことが原因のような気がした。
もちろん精神異常だったり、複雑な原因もたくさんあるけど、それが悪い意味でタイミングよく重なった時、起きてしまうんだと思う。
死刑囚はたいてい2人以上殺している。
自分の借金のせいで強盗殺人という自己中心的な人間もいる。
自己中心的ということは、思考が狭いということ。
自己中心的のまま生きていった果てにある最悪な結果。
いつも自己中心的で不満が絶えないという不幸。
自分を不幸で不公平だと思いつづけ、考えを広げようとしない愚かさ。
その果てに行く前に必ず立ち直るきっかけが隠されてる。しかも、それもおそらく日常の中に。
死刑囚はもしかしたら、牢屋の中に入ってようやくそのきっかけを見つけてしまったのかもしれない。
同情なんて一切しない。
死刑囚の絵を素晴らしいとも思わなかった。
遺族の方のことを想うとこうしてギャラリーに作品が飾られていることすら深く傷つくし、つらいなんて言葉じゃ言い表せないと思う。
だけど、わたしは死刑囚の絵をみて本当によかったと思う。
家に帰って、親に作品展どうだったって聞かれたので、
「普通だった」と答えたら、父さんが一言、
「普通じゃあるもんか。普通より自分のことしか考えてない人間だろう」とな。
この一言が一番シンプルで納得できた気がする。
自分のことしか考えられないことの単純さ、簡単さ、恐ろしさ。
自分にも起こりうる負のスパイラル。
そういう意味でも、いろんな価値観のいろんな人、本、音楽、芸術、文化、世界を知って出会うことがどれだけ真剣に大切か、あらためて思えました。
あーーまた長々書いちゃった(笑)しかもすんごくディープな話だし(笑)
次はもっと楽しいことを長々書きたいと思いますので許してください(>_<)
読んでいただきありがとうございました!