10日間の瞑想合宿をやり抜いたら、いわゆる無我の境地に到達できた体験記を記述する

年末年始にかけて、ふたたび10日間ほど淡々と瞑想のみを集中して行った。


結論からいえば、今回の瞑想合宿は非常に成功した。


瞑想というものの本質を僕なりに定義すると、まず第一段階として

1.良くも悪くも私達は、肉体という制約条件の元で動いている以上、肉体からの刺激が私達の気分や思考に何らかの影響を与えているであろう事は否定したがく

2.そしてその影響を受けている事に私達はあまりにも無自覚である


というものがあり、


第二段階として

3.究極的には知覚する感覚の由来は9割以上が筋肉由来であり

4.肉体を構成する500個ほどの筋肉が、ガッチガチに凝り固まっており、それらを丁寧に解きほぐしてゆく事が、突き詰めると瞑想でよくとられる結跏趺坐というキッツイ姿勢の目的である


というのが、ここ数年瞑想を淡々とこなした僕の理解である。


毎日1~2時間かけて淡々と坐り続ける事で、これらを頭で理解するのではなく、身体で理解するのが瞑想をわざわざ忙しい現代人が時間と情熱をかけてやる理由であり


それらを苦労してやるメリットとして、形容しがたい脳裏にうっすらと浮かぶ、誰もが持つであろう生きにくさのようなものが軽減するというのが、僕が「ぶっちゃけ…瞑想やる意味ってあります?」と聞かれたら答えるであろう内容である。


とまあ、これだけ理解すれば十分といえば十分なのかもしれないが、瞑想における不可思議な点がもう一つある。それはヴィパッサナー瞑想を流布しているゴエンカ氏が、瞑想のスタートとして10日間近くも浮世から人を隔離させて、集中的に瞑想をやらせるという事だ。


僕のこれまでの原稿を読んでくれた人の中にも、ヴィパッサナー瞑想に興味は持ったものの、わざわざ10日間以上もの時間を捻出して、千葉や京都の道場にコースを予約して通ったという人は、そう多くはあるまい。


現実問題として、あの時間を捻出するのは普通のしがらみにまみれた現代人には困難であろう。それがわかっているにもかかわらず、なぜここまで敷居をあげるのだろうか。3日間とか5日間に、なぜしないのだろうか?


今回、その答えがようやくわかったのでここに記述する。


要旨をいえば、ある特殊なゾーンに入り込むのに7日間程度の時間は確かに必要であり、かつその特殊なゾーンから俗世に戻るまでのリハビリ期間に、2日ほどは用意しないと、危険であるという事だ。


ヴィパッサナー瞑想における一つの境地、バンガとは何か

これまで何度か紹介してきた想田和弘さんのヴィパッサナー瞑想合宿体験記にて、最も読者を引き付けるシーンの一つが、想田和弘さんがバンガと呼ばれる自己融解の境地に合宿中にたどり着く事だろう(未読の人は30分もあれば読めるので、ぜひ読みましょう)


想田和弘さんはヴィパッサナー瞑想合宿中に、激しい痛みや苦悶で苦しめられ続けた果てに、すべてをなげうつ諦めの境地に達した瞬間、すべてが溶けるような不思議な感覚に身を包まれ、そして不可思議な経験をされている。


僕自身、これまで何度か似たような体験はした。しかし、これが一体なんなのかがイマイチこれまでは言語化ができなかった。


しかし、今回食事を豆乳のみにして、これまで以上に集中的に坐禅を組み続け、7日目ぐらいで溶解のフェーズに入った瞬間、いったいバンガで何が起きているのかを初めて言語化できるレベルで理解した。

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