『14歳からの社会学』に学ぶ毛繕いの大切さ
社会学博士の宮台 真司(みやだい しんじ)さんが2008年に書いた本「14歳からの社会学」を読みました。
友達って?家族って?会社って?
そんな私たちの周りにある「みんな」について書かれた本は、タイトルの通り中学生でも分かるように、社会とは?について知ることが出来る。
この本を読んで、新しい社会が向きあう孤独の問題、そして私たちゴルファーとゴルフ場の在り方についても考えてみた。
社会とは何か?
私は小さい頃は両親が共働きだったので、隣人の老夫婦の家によく預けられていた。今の社会では考えられないかもしれないが、昔はお隣さんと言えば勝手知ったる仲で、お世話をしたりされたりするのが当たり前だったのだ。
社会とは簡単にいうと私たちの周りにいる「みんな」のことだ。
「みんな」はどうやって決まるのか?
どこまでが「みんな」で、どこからは「みんな」じゃなくなるのか。
「みんな」は相互扶助(助けあい)が原則である。
だから社会保障で支え合う「日本のみんな」であり、仕事を助け合う「会社のみんな」を社会と呼ぶ。
一方で便利になればなるほど、私たちの社会は小さくなり、孤独になる。
私が生きてきたこの40年をみても、助け合いの機会はどんどん減っている。
これは「みんな」が分断されていると言えるのかもしれない。
豊さや便利さは、“みんな”を不要にする。
会社に例えてみよう。昔は電話をとったり書類を作る事務職の人がいたが、現代では電話は携帯電話になり、資料はラップトップやタブレットで何処でも誰でも作れる、領収書の整理もスマホで写真をとるだけで画像認識が日付や金額を読み取るから入力する人もいらなくなった。
さらに集客や営業もTVCMや雑誌などの大きな投資が不要となり、YoutubeやInstagramに代表されるように個人メディアが台頭してくると企業の価値が低下してくる。
これまで「仕事」をするのに何人も関わっていたことが、1人で完結できることが増えてくる。必然的に相互扶助の機会が減ってくるのだ。
家庭というのも、その一つかもしれない。
少子化や未婚率の上昇が問題になっているが、家電の進化によって家事労働が減り、健康的な食事も外食や中食で取れるようになると、家族がお互いの助け合いを必要としなくなる。核家族が増えたのも、家事や子育てに人手がいらなくなったからだ。
私は子供の頃に何度か家出を試みたことがあるが、けっきょく食べるものも無ければ、寝る場所もないので、すぐに戻っていた。当たり前だが小学生の私は1人で生きられなかった。
でも今だったらどうだろうか。スマホ一つで食べるものも、住む場所も見つけられる気がする。
こうして1人で出来ることが増えれば増えるほど、私たちの周りには「みんな」が不要になり、「ひとりでできるもん!」によって孤独化していくのだ。
ひとり焼く肉、ひとりカラオケ、ひとりゴルフ予約、プライベートなんちゃらに、個別なんちゃら。みんなからひとりへ。
煩わしさは減ったが、寂しさが増えている気がするのは私だけだろうか。
現代における毛繕いの大切さ
毛繕い(けづくろい)とは、動物が体の衛生や機能維持などを目的として行う行動である。
毛繕いは自分自身に対して行う「セルフグルーミング」と、他者に対して行われる「社会的グルーミング=ソーシャルグルーミング」がある。よく猿が仲睦まじくノミを取っている光景を目にしたことがある人も多いだろう。動物が生まれてきた赤ちゃんを舐めて体液をぬぐい綺麗にする愛情を感じる行為もグルーミングだ。
毛繕いは生物の行動を研究する動物行動学において、生命維持機能だけではなく、群れを維持することや、紛争を解決すること、集団内の序列を示すことなど社会活動の一環として行われていることがわかっている。
特に群れで動く動物においては、集団で生き延びるための社会形成が必要不可欠であり、その社会を維持するための行為としてグルーミングが役目を果たしている。
人間社会でも「飲み会」や「集合研修」などがグルーミングにあたる行為と言われている。
食べ物を分け合うことや、お互いの心に積もった不満や不安を話し合うことで精神的衛生を保つことは、動物のノミ取りとさほど変わらない。
これは私たちの人間関係の満足の増大に繋がっているのだ。
しかし人と人との交流機会はこれからもどんどん少なくなる。
コロナが収束した後もリモートワークは浸透していくし、テクノロジーの進化による仕事の個人化は加速していく。
私たちはどんどん社会性を低下させながら、より孤独を身近に感じながら生きていくことになるのだ。
そして問題の本質はこの孤独が私たちの幸福度に大きく影響を与えてしまうことだ。
選択肢が増えることは幸せだが、選択肢が増えれば増えるほど、選ぶのは難しくなる。
集団でしか生きられない状況であれば、グルーミングの術を学ぶことでしか幸せは得られない。
むかし結婚を決めたときに、「寂しさ」か「煩わしさ」か、どちらが自分の幸せに必要なのかを考えた方が良いとアドバイスされたことがある。
このトレードオフの関係は今でもしっくりきている。
町内会、消防団、部活、学校、会社、結婚、SNS。
あなたがその社会に属さなくても生きられるとして、それでもあなたは社会に属すことを選ぶだろうか?
選択肢の増加は一見すると幸せに思うが、選ぶ難しさが伴う。
私たちはそれを選ぶ能力を備えながら、生物として適切な進化しているだろうか?
ゴルフでできる毛繕い、新しい交流の形
私はゴルフ活動家としてゴルフ産業への貢献を生業としている。
これまでは生きるために自然発生的に生まれてきた社会を、これからは意図して作り、選ばれることがビジネスでも重要になる。
これは商品もそうだし、サービスもそうだろう。
そして、それは「孤独」ではなく「自立」した個人が互いに助け合う、「依存」ではなく「共存」の新しい社会的な関係だ。
ゴルフ場は例えばコースの経営課題の解決や、集客イベントにメンバーさんと一緒に取り組むのはいいかもしれない。
業者と客の関係ではなく、ゴルフを愛するコミュニティとしての関係だ。
一聴すると奇を衒って聞こえるが、「倶楽部」とは本来、自分たちの遊び場をもっと楽しくするために「あーでもない、こーでもない」と語り合う社会だ。
メンバーさんはもちろん経済的には自立している方ばかりだし、一方で彼らがゴルフ場に貢献することで最終的に彼ら自身が満足できることが多い。
コースの従業員にとっては労働でも、ゴルフが好きなメンバーさんにとっては自分のホームコースを自分たちの手で同じ志の仲間と一緒に作りあげていくことは素晴らしい毛繕い体験になるだろう。
産業全体でも新しいゴルファーを増やす活動なんかを一緒にやるのも面白そうだ。
実際に私が以前にジュニア育成のボランティアをSNSで募集した際も、多くのアマチュアゴルファーが手を挙げて、わざわざ仕事を休んで手伝ってくれた。
以前に読んだ本で『ニュータイプの時代』でも
物やサービスが溢れる時代にになると多くの物質的な問題が解決されると、相対的にその「問題」自体が希少となる。
と書かれていた。
社会的な仕事を一部の業界団体や企業がやるのではなく、こうした希少な問題をシェア(共有)し、一般のアマチュアゴルファーが課題解決に参加することでゴルフの社会的価値は高まるのではないだろうか。
もちろん理想論と言われてしまえばそれまでだが、共存や共創の価値は、それが生み出すアウトプットの価値だけではなく、その過程における社会性にもその価値があるのではないかという提案でこのポスト結ぶことにしたい。
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