【サルゴン】捨て子から王に成り上がり!?はじめてメソポタミアを統一した戦いの王【アッカド帝国】
どーも、たかしーのです。
今回は『サルゴン』についてです!
今から約4300年前(紀元前2300年頃)、謎の民族シューメル人が築いた都市国家を次々と征服し、はじめてメソポタミアを統一した王のことですが、そんな王が築いたアッカド帝国についても触れつつ、この国が滅亡するまでをザザザッと書いていきます。
メソポタミアの歴史(ここまで)
前回までのおさらいですが、今回登場する『サルゴン』が出てくるまでの歴史をざっくり年表で振り返ります。
約20万年前:アフリカに新人(ホモ=サピエンス)が出現
約16~10万年前:新人が西アジアへと移動(人類の拡散) ※ちなみに、この新人が日本に到達したのが約4~3万年前ごろ。
約9000~8000年前:西アジアでウバイト人による人類最初の農耕牧畜が始まる
約8000~7000年前:南部メソポタミアで灌漑農業が始まる
約6000~5000年前:南部メソポタミアに移住したシュメール人が村落を形成し、これが都市へと発展する(この頃から青銅器や楔形文字を使い始める)※この頃、日本はまだ縄文時代。
約4700年前(紀元前2700年):シュメール人がウル、ウルク、ラガシュなど20もの都市国家を形成する
約4600年前(紀元前2600年):ギルガメシュがウルク第1王朝第5代の王として在位する
サルゴンを知るために抑えておきたい用語
アッカド人
歴史上はじめて帝国を作ったセム語系民族のこと。
元々は、西アジアで遊牧生活を営んでいた民族でしたが、メソポタミアを含む地域が肥沃で農耕に適した土地(「肥沃な三日月地帯」と呼ばれている)であることから、次第に農耕定住生活に移行し、約5000年前(紀元前3000年)ごろ、メソポタミアへと侵入するようになりました。
セム語系(セム語派)
アッカド人が話すアッカド語を含む言語グループのこと。他にも、バビロニア語、アッシリア語、アラム語、フェニキア語、ヘブライ語、アラビア語が、セム語系として分類されています。
なお、言語学では、語族→語派→語群という階層で言語グループが細分化され定義されていますが、この「セム語系」はこの中の語派にあたり、この上位となる語族は「アフロ・アジア語族」となります。
「アフロ・アジア語族」は、アラビア半島を中心とする西アジアおよび北アフリカに分布する語族のことで、セム語系の他にも、エジプト語、ベルベル語、チャド語、クシ語、オモ語といった語派があります。
※ですが、この中でエジプト語派の言語はすでに消滅してしまったようです。
サルゴンの伝説
そんなセム語系民族であるアッカド人であり、のちにアッカド帝国を建国して、メソポタミアを統一した王サルゴンですが、その出自は意外なものでした。
生まれてはいけない子だったサルゴン
サルゴンにまつわる伝説によれば、サルゴンの母親は巫女だったが、神事のため、授かってはいけない子供、つまりサルゴンを授かってしまい、これが理由でカゴにいれられ、ユーフラテス川に流されるところから始まります。
なお、サルゴンの母親がなぜ身籠ってしまったかですが、儀式として、相手に神の力を授けるために、巫女がセックスをするという慣習があったとされ、そのため、巫女は子供を授かってはならないとされていたようです。
※この行為は「神聖売春」または「神殿売春」と呼ばれています。
ユーフラテス川に流されたサルゴンですが、川のほとりにあった都市国家キシュ近くに流れていたところを、この国の王に仕えていた庭師ラーイブムに拾われることになります。
これがきっかけとなったのか、成長したサルゴンは、出世をして、キシュの王であるウル・ザババの杯持ちとなります。もしかしたら、母なるユーフラテス川から流れてきたということで、神から授かった子として大事にされたのかもしれません。
サルゴン「...という夢を見たんやけど、」
ですが、ある夜。
サルゴンは、自分が女神イシュタルに愛され、その女神によって、王ウル・ザババが血の川に流され溺死する、という夢を見たと、王に正直に伝えます。
ちなみに、女神イシュタルは「ギルガメシュ叙事詩」にも登場しましたが、ギルガメシュにフラれた腹いせに、グガランナという巨大な牛のモンスターを地上界に送って、大暴れさせたという逸話が残るヤベェ女神さまです。
で、この夢を聞いたウル・ザババは、サルゴンを危険人物と認知し(そりゃそうだ)、鍛冶屋長ベリス・ティカルという人物に依頼をして、サルゴンを殺害するよう命じます。
しかし、サルゴンは、女神イシュタルからの助言を聞いたことで、王による殺害計画は失敗に終わります。
※女神イシュタルが「血で汚れている」と助言し、サルゴンをお城の中に入れなかったそうな。
これで、ますます危機感を抱いたウル・ザババは、「サルゴンを殺害せよ」と粘土板に刻み、別の都市国家であるウルクの王ルガルザゲシに送って、相談を持ちかけます。この頃は、紙がないので、手紙の媒体が粘土板というのが、面白いですね。
ちなみに、このウルクは、かつてギルガメシュが王として治めた都市国家です。
しかしながら、残念なことにここから記録された粘土板が欠損しており、どうやってサルゴンがここから王となったのかは、わからずじまいとなっています...。
サルゴンのメソポタミア統一
サルゴン、アッカド王となる
伝説上では、何があったのかはよくわかりませんが、サルゴンはここからウル・ザババから王位を奪い、本拠地をアッカドという都市に移します。
アッカドの場所は、考古学的にもいまいちよくわかっていないようですが、一説にはキシュとシッパルの間と考えられているようです。
また、「アッカド」という言葉には「軟らかい沼沢地」という意味があるそうです。
この後、サルゴンは、アッカドで王となり、ウル・ザババに自身の殺害を相談されたウルクの王ルガルザゲシと戦うことになります。
シュメールの覇者・ルガルザゲシ
サルゴンの宿敵であるルガルザゲシですが、実はすでにシュメールの都市国家を統べる王でもありました。
元々、ルガルザゲシはウンマという都市国家にいましたが、この国はラガシュという別のシュメール都市国家とバチバチに戦争をしておりました。
この戦争は100年もの間続きましたが、このルガルザゲシが王となり、ラガシュに猛攻撃を仕掛けた結果、ラガシュは滅亡し、長きに渡った戦争に終止符を打ちます。
強敵だったラガシュに勝利したことで、ルガルザゲシは、他のシュメール都市国家の王の中でも1番の権力者、つまり王の中の王となったようで、本拠地をウンマよりも歴史のある都市のウルクに移します。
そこから、ウルク第3王朝を建国することとなります。
日本で例えるならば、地方でバリバリ活躍した知事が、その勢いで国政にまで進出し、ついに総理大臣にまでなったという感じでしょうか。
ちなみに、ルガルザゲシは自らを「国土の王」と名乗っていたそうです。
アッカド VS シュメール 天下分け目の戦い!
話を戻しますが、サルゴン率いるアッカド王国は、シュメール人の都市国家が点在しているメソポタミア中南部の覇権を巡って、ルガルザゲシ率いるウルク第3王朝と、天下分け目の戦いをすることになります。
このメソポタミア中南部は、バビロニア地方も呼ばれていて、その北部をアッカド人が、南部をシュメール人が領地としていました。
この戦いに、サルゴンが勝利し、ウルクを占領して、城壁を壊したと記録されています(せっかくギルガメシュが作らせた城壁が...泣)。
また、敗れたルガルザゲシは、捕虜となり、首に鎖を繋がれて、ニップルという都市にある神殿にまで連行されたとも記録が残っています。
ところで、なぜサルゴンがルガルザゲシ率いるウルク第3王朝に勝てたか?なんですが、その勝因として、サルゴンはこのとき直属の親衛隊として、5,400人もの常備軍を設置していたことがあげられています。これが、アッカド人を鍛えて育てあげた軍なのか、はたまた傭兵を雇って集めたのか、は定かではありませんが、これほどの専属部隊を用意して戦ったのは、当時としては画期的だったようです。
また、別の勝因としては、槍中心のシュメール人に対して、新兵器として短弓を使ったこともあげられています。確かに、近接攻撃が中心であったシュメール人に対して、ある程度距離を取って攻撃ができる弓は、兵を失うコストを減らしつつ、効果的に戦えたのかもしれません(マイクラでスケルトンが出てきたら戦いづらいのと似ているかも...)。
サルゴン「めっちゃ支配したったでー」
こうして、約4300年前(紀元前2300年)ごろ、ウルク第3王朝を滅ぼしたことで、シュメール人の都市国家を次々と傘下に取り入れ、サルゴンはバビロニア地方の覇者となります。
これにより、サルゴンがアッカド人以外の民族も支配下におさめたことで、人類初の帝国がここに誕生したこととなります!
※帝国の定義を「皇帝が複数の王国・民族・地域を統治している広大な国家」とするならば、サルゴンが成し遂げたことは、まさにコレにあたります。
しかし、これで満足をしなかったサルゴンは、バビロニア地方の隣りにあるエラム地方に進軍し、4人のエラムの王も打倒して、征服。続いて、そこから北隣のシムルムにも進軍して、制圧をします。
その後、西方にも遠征を始め、都市マリを始め、エブラ、アナトリア南東部の銀の山(タウルス山脈)、レバノン杉の森(アマヌス山脈)をも征服することに成功します。
こうした支配領域を、バビロニア地方からメソポタミア、さらには東方、西方にまで広げたことで、サルゴンは自らを「世界の王」と名乗り、その功績として「上の海から下の海まで」支配したと記録がされています。
上の海は地中海、下の海はペルシャ湾であろうと推測されていますが、実際は東はエラムまで、西はマリまでだったという説が有力とされています。
また、この「上の海から...」という表現は、同じような表現でルガルザゲシも自身の功績を記録しているので、おそらくサルゴンがこれをマネたのであろうとも考えられています。
アッカド帝国の繁栄と滅亡
周辺世界と交易がさかんに行われた
サルゴンは、メソポタミア南部を支配したことで、周辺世界との交易もさかんに行っていました。
当時の粘土板の記録によると「メルッハの船、ディルムンの船、マガンの船を波止場につないだ」とあり、この中の「メルッハ」はインダス文明の勢力のことであり、アッカド帝国にとっては、重要な交易相手であったとされています。
他の交易相手は、オマーンやバーレーンあたりの勢力であると考えられています。
公用語はアッカド語、文字は楔形文字を採用
アッカド人が統一したことで、メソポタミアでは、シュメール語ではなく、アッカド語が公用語として使われるようになりました。
ですが、アッカド人は文字を持っていなかったので、シュメール人が考案した楔形文字を継承し、文字として、引き続き利用するようになります。
ということは、アッカド人がシュメール人の文化を取り入れたともいえるので、支配した・されたの関係ではありますが、何らか文化的な交流があったと言えそうです。
粘土板に殺される王子たち
そんな統一国家を築いたサルゴンですが、紀元前2279年に亡くなったとされています。
その後、サルゴンの息子リムシュが後を継ぎ、王となりますが、帝国を急激に拡大した反動により、アッカド帝国に対する反発する勢力が次々と現れ、帝国は維持したものの、部下から粘土板で殴られ、暗殺されるという最期を迎えます(粘土板の使い方よ...)。
続いて、リムシュの兄マニシュトゥシュが後を継ぎますが、この王も同じく粘土板で殴られ、暗殺されてしまいます(粘土板の使い方よ...)。
四方世界の王 ナラム・シン
そんな中、登場したのが、マニシュトゥシュの息子であるナラム・シンでした。つまり、サルゴンの孫にあたります。
このナラム・シンが後を継ぎ、反発勢力に悩まされつつも、大規模な遠征を繰り返して、アッカド帝国の最大版図を築きます。
これにより、サルゴン以来名乗っていた「世界の王」に替えて、「四方世界の王」を名乗るようになり、支配領域が更に広がったことをアピール。
さらには、また自らを神格化し、アッカドの神としても君臨するようになりました。
アッカド帝国の破壊者 ナラム・シン
ですが、支配領域をさらに広げた代償は大きく、各地で反乱分子が多く生まれるようになりました。
これら反乱を鎮圧し、なんとか帝国として保ってはいましたが、紀元前2193年、東方から進出したグティ人の侵略によって、アッカド帝国が滅亡してしまいます。
伝説では、ナラム・シンがニップルという都市にある神殿を破壊したことで、神々の怒りを買い、その神罰として、山の大蛇グディ人をアッカドの地に送って滅亡させたと伝えられています(山の大蛇!?)。
他にも、このグディ人の侵略によって、兵士36万人が殺されたとも伝えられています。
これにより、アッカド帝国の最大版図を築いたナラム・シンですが、アッカド帝国を破壊した人物としても、後世に伝えられるようにもなりました。
おわりに
以上が「サルゴン」について、でした。
ちなみに、「サルゴン」という名前は「旧約聖書」に出てくるヘブライ語での読み方であり、アッカド語では「シャル・キン(Sharru kin)」と呼ばれていました。
この言葉の意味は「真の王」であるため、実際、シュメールの王を打破し、自らがメソポタミアの王に成り変わったから、そう名づけたとも考えられますし、元々王の血筋ではなかったが、王に成り上がったことで、そう名乗ったとも考えられます。
また、2つ名が多いですが、戦功を上げ、アッカド帝国を築いた王として「戦いの王」とも称されるようにもなりました。サルゴンは、アッカドに移る前まで、幼い頃からキシュの王に仕えていたとありましたが、きっとこのときに軍事的センスが磨かれたのかもしれません(川から流れてきた話は如何にもウソっぽいけど)。
あと、粘土板が記録媒体だけでなく、手紙であったり、凶器であったりと、様々な使われ方をされていたのが、とても興味深かったです!
他にも、この歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!