【ジョモ・ケニヤッタ】予言されたマウマウ団の乱!?苦難を乗り越えケニアがついに独立を果たす【ケニア共和国】
どーも、たかしーのです。
今回も、ケニアの歴史について、です!
前回に引き続き、イギリス植民地から独立を果たし、初代大統領となった『ジョモ・ケニヤッタ』にフォーカスをして、書いていきたいと思います!
ケニアの歴史(ここまで)
前回までのおさらいですが、ざっくり年表で振り返ります。
紀元前2000年頃:北アフリカからやって来たクシ語系(クシ語派)民族が、現在ケニアの位置する東アフリカの一部に住み着くようになる。
紀元前1000年頃まで:バントゥー語系、ナイル語系といった民族も、ケニアの地に定住するようになる。
7~8世紀頃:アラブ商人たちが交易のため、ケニア南東にある海岸地域を頻繁に訪れるようになり、やがて定住するようになる。ケニア南東の都市モンバサが作られる。
10世紀頃:アラブ商人が使うアラビア語がバンドゥー語と融合して、スワヒリ語が生まれる。
15世紀末:大航海時代を迎えたヨーロッパから、ポルトガル王国のヴァスコ・ダ・ガマ船団がモンバサを訪れる
16世紀初頭:ポルトガル人がモンバサに上陸し、ポルトガルの極東貿易の拠点として占領される。
1698年:ポルトガル人、オマーン帝国により、モンバサを奪われる。
18世紀:ケニア内陸部にも、オマーン帝国の影響力が強まり、奴隷貿易や象牙貿易が活発に行われる。
19世紀:ヨーロッパの帝国主義諸国(列強)によるアフリカの植民地化がさかんになり、ケニアを含む東アフリカ地域が、イギリスとドイツによって争われる。
1895年:アフリカ分割により、イギリスの保護領として、イギリス領東アフリカが成立することになる。
~~~~このあたりで、ケニヤッタがキクユ族の村で生まれる~~~~
1919年:キクユ協会(KA:The Kikuyu Association)が結成される。
1920年:ケニアは保護領から、正式にイギリスの植民地とされる。
1921年:ハリー・トゥクが、キクユ協会を離脱し、新しくキクユ青年協会(YKA:The Young Kikuyu Association)を設立する。その後、東アフリカ協会 (EAA:East Africa Association)に名を改める。
1922年:イギリスの植民地政府により、ハリー・トゥクが逮捕され、EAAは解散させられる。
1925年:元EAAであったメンバーによって、新たにキクユ中央協会(KCA:Kikuyu Central Association)が結成される。
1926年:KCAの書記として、ジョモ・ケニヤッタが政治活動に本格的に参加する。
1928年:KCAがキクユ語の月刊新聞「Mũigwithania(ムウィギタニア)」を創刊する。タイトルの意味には、キクユ語で「団結させる者」。
1929年:KCAがジョモ・ケニヤッタをロンドンに派遣する。
ケニヤッタが「ジョモ・ケニヤッタ」になるまで
ケニヤッタ、ロンドンへ行く
1929年2月、ケニヤッタは、ロンドンへと向かいました。
きっかけは、イギリス政府が、イギリス領東アフリカの3つの領土(ケニア、ウガンダ、タンガニーカ)をより緊密に連合させる計画("Closer Union of East Africa")を提言したことでした。
これが実行されてしまうと、先住民ケニア人であるキクユ族の権利が無視されると考えたキクユ中央協会(KCA:Kikuyu Central Association)は、この計画に反対をすべく、ケニヤッタを代表者として、植民地庁のあるロンドンへと派遣します。
しかしながら、植民地担当の国務長官からは面会を拒否されてしまいます。
そこで、ケニヤッタは、ザ・タイムズ紙(通称「ロンドン・タイムズ」)に何通もの手紙を書いて、訴えることにしました。
1930年3月、ザ・タイムズ紙にて発表されたケニヤッタの手紙には、KCAが主張する5つの課題が述べられていました。
①土地所有権の保障とヨーロッパ人入植者に割り当てられた土地の返還
②アフリカ人の教育施設の改善
③小屋税と人頭税の廃止
※小屋税・・・先住民ケニア人が所有する小屋に課せられた税
※人頭税・・・先住民ケニア人自体に課せられた税
④立法評議会へのアフリカ人代表の参加
⑤民族における伝統習慣への不干渉
言い換えると、これらの逆の事態が、実際のケニアでは起こっていたということになります。
そして、手紙の最後には、このような課題に対して対策がされない場合は…
と結論付けられていました。
ケニヤッタ、再びロンドンへ行く
その後、特に成果を得られないまま、活動資金が尽きてしまったため、1930年9月、ケニヤッタは、ケニアへと帰還します。
ですが、キクユ族の権利回復に燃えるケニヤッタは、1931年5月、再びKCA代表として、東アフリカの将来に関する委員会に出席するため、ロンドンへと向かいます。
そしてここから、ケニヤッタは、15年間ケニアから離れることになります。
この委員会でも、ケニヤッタの証言は、またしても拒否をされてしまいますが、これまでのケニヤッタの行動が効いたのか、イギリス政府は、結局、この連合計画("Closer Union of East Africa")を一時的に断念することとなりました。
ちなみに、この頃、ケニヤッタは、のちにインド独立の父となったマホトマ・ガンディーとも会談をしています。
ケニヤッタ、ソ連の大学に留学する
1932年8月、ケニヤッタは、ロンドンで知り合ったジョージ・パドモアの後援のもと、モスクワ大学で経済学を学ぶため、ソビエト連邦(ソ連)に留学をします。
この後援者であるジョージ・パドモアですが、当時ソ連が運営していたコミンテルンのため、ロンドンで活動をしていたカリブ海出身のパン・アフリカ主義者でした。
コミンテルンとは、英語で書くとCominternのことで、共産主義インターナショナル(Communist International)の略語を指します。
※別名、第三インターナショナルや、国際共産党ともいう。
この団体は、イギリスを始めとした帝国主義と闘う国際的な共産主義運動を志向したレーニンによって提案された組織で、ケニヤッタがヨーロッパにいた頃には、国際政治にも大きな影響力をもっていました。
また、パン・アフリカ主義とは、アフリカ本土および全世界に散らばったアフリカ系黒人の解放をアフリカ全土の課題として捉え、さらに北アメリカやカリブ海域のアフリカ系黒人とともに運動を進めようという思想のことを言います。
帝国主義を掲げるイギリスによって母国が植民地化され、かつ先住民ケニア人であるキクユ族の権利回復に燃えるケニヤッタが、このパドモアと知り合ったことは、彼のこれまでの背景を知る限り、必然だったと言わざるを得ません。
しかしながら、その後、パドモアは、コミンテルンとの確執によって、ソ連から追放されてしまい、これに合わせて、ケニヤッタもソ連を去ることとなりました。ケニヤッタがモスクワ大学で学んだのは、約2年間ほどでした。
ロンドンに戻ったケニヤッタは、他の黒人ナショナリストやパン・アフリカ主義者とも出会い、刺激を受けるようになります。
この頃のケニヤッタの活動からみるに、ここで、彼のアフリカにおけるケニア独立の思いがより一層強くなったと考えられます。
ケニヤッタ、ロンドンの大学に留学する
1935年、ケニヤッタは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスという大学で、今度は社会人類学を学ぶことになります。
このとき、ケニヤッタが師として仰いだのが、ポーランド出身の人類学者ブロニスワフ・マリノフスキでした。
マリノフスキは、社会人類学の創始者であり、これまでの人類学のアプローチにはなかった「人類学者自ら現地で集中的に調査を行い、その資料に基づいて社会を分析し、その構造をモデル化する」といったフィールドワークの価値を確立した学者として知られています。
※社会人類学・・・集中的現地調査をもとに、異なる社会の比較研究を行う人類学の一分野のこと。
また、マリノフスキは、自身の思想として「機能主義(functionalism)」を掲げており、これは「ある文化の儀式や儀礼には論理性があり、その文化の中で機能している」ということを説いていました。
このマリノフスキが、ケニヤッタの人生に大きな影響を与えることとなります。
ケニヤッタ「ワイの本が出たでぇ~!」
ケニヤッタは、マリノフスキの指導の下、キクユ族の伝統文化について研究を行いました。
そして、1938年。ケニヤッタは、この研究論文をもとに、欧米で出版された最初のアフリカ人の著作と言われる『ケニア山を望んで(Facing mount Kenya)』を出版することとなります。
この『ケニア山を望んで』は、キクユ文化の伝統に対する洞察が、西洋の読者にも理解しやすい形で書かれた著作なのですが、その一方で「人類学を植民地主義に対する武器として利用したい」というケニヤッタ自身の願望も込められていました。また、ケニヤッタは、マリノフスキの機能主義を利用して「伝統的なキクユ社会には、ヨーロッパの植民地主義がもたらしたものよりも、優れた結束力と完全性がある」という考えを、この本を通じて推進していました。
このときのペンネームを「ジョモ・ケニヤッタ」とし、名を改めています。「ジョモ」はキクユ語で「剣を鞘から抜くこと」を意味するそうです。
ケニヤッタがケニア初代大統領になるまで
第二次世界大戦、勃発
1939年9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が勃発します。
この戦争勃発により、ケニアでは破壊的な活動をする可能性があるとしてKCAの活動は禁止され、ケニヤッタは事実上、KCAから切り離された状態となりました。
※とはいえ、イギリスの諜報機関は、不穏な動きはないか、ケニヤッタを5年間も監視し続けていたそうです。
その間、ケニヤッタは、キクユ語の研究本や、ケニアの伝説を手本とした小説などをいくつか出版した後、農作業労働者として働いていました。
また、自身が労働者教育協会の講師を務めることにより、第一次世界大戦に続いて、徴兵を免れることもできました。
大学に何度も通い、学びまくっていたことが、ここで活きましたね。
なお、1942年には、イギリス人女性エドナ・クラークと自身2度目の結婚をして、子供も儲けています。(最初の妻はどうした!?)
第5回パン・アフリカ会議、開催
第二次世界大戦が終戦した1945年10月。
ケニヤッタは、ロンドンに移住していたパン・アフリカ主義者のジョージ・パドモアらとともに、マンチェスターでパン・アフリカ会議(第5回)を開催しました。
実は、ケニヤッタは、戦争が進むにつれ、アフリカ大陸やアフリカ離散民から集まった反植民地主義者やアフリカ民族主義者のグループと関わるようになっていました。
この会議には、90人の代表団が出席し、その1/3はアフリカから、1/3は西インド諸島から、1/3はイギリスの機関や組織から集まりました。
会議の中で、アフリカ大陸全域の民族主義運動の計画が話し合われ、植民地支配からの独立と人種差別の撤廃が要求されましたが、国際的な報道からは完全に無視されていました。
ただ、この会議が、アフリカにおける帝国権力の終焉に向けた重要な一歩となりました。
ケニヤッタ、ケニアに帰る
ケニヤッタは、イギリスからケニアへの帰還要請を受け、1946年にケニアへと帰還しました。この時、2番目の妻であった女性エドナ・クラークは、連れて行かず、結局このまま離婚することとなります。ちなみに、このときモンバサに到着したケニヤッタを、最初の妻であるグレース・ワフとのその子供たちが出迎えたそうです。(ヒェッ…)
ケニアに戻ったケニヤッタは、その講師をしていた経験から、ケニア・アフリカ教員大学の校長に就任します。そこで、ケニヤッタはこの大学を政府の教育機関に代わるものとして、指導していたそうです。
その後、ケニヤッタは、ケニアで新しく結成されたケニア・アフリカ連合(KAU:Kenya African Union)の指導者として招聘(しょうへい)され、1947年に同連合の会長に就任します。
ここから数年間、ケニヤッタはケニア各地を講演して、ケニア独立を訴えるようになりました。
一方で、ケニヤッタは、キクユ族の長老の娘であるグレース・ワンジクを3番目の妻(!?)として迎えますが、1950年に出産が原因で死別していまいます。(最初の妻はどうした!?)
1951年には、またもキクユ族の長老の娘であるエンジナ・ムホホを4番目の妻(!!?)として迎えます。このエンジナが、のちにケニア最初のファーストレディとなります。(やっぱり、最初の妻はどうした!?)
マウマウ団の乱、勃発
かつて、ケニヤッタが、ザ・タイムズ紙に送った手紙にはこう綴っていました。
この「危険な爆発」が、ついにケニアで実際に起こってしまいます。
第二次世界大戦が終戦してもなお、イギリスの植民地支配に置かれた先住民ケニア人たちの怒りが、ついに頂点に達し、のちに「マウマウ団の乱」と呼ばれる独立運動が勃発することになります。
これは、ケニヤッタが会長を務めるケニア・アフリカ連合(KAU)から離脱した急進派が、ケニア土地自由軍(KLFA:Kenya Land and Freedom Army)という秘密結社を結成し、1952年から、ケニア各地の白人農場、警察署、政府軍用地、さらには親植民地派のケニア人までも襲撃するようになりました。
この事態に、ケニア植民地政府は、ケニア土地自由軍(KLFA)の掃討に乗り出し、同年10月20日に非常事態宣言を出します。
ケニヤッタ、逮捕される…
同年10月21日。この独立運動を指揮した容疑で、ケニヤッタらKAUのメンバーが逮捕され、裁判にかけられることとなりました。
実際、ケニヤッタはこの独立運動を指揮していなかった(関与していたのはKAUではなく、そこから離脱したKLFA)のですが、植民地政府はケニア独立を目指すケニヤッタを拘束すれば、マウマウ団の乱が沈静化できると考えていました。
この裁判は5ヶ月にも及びましたが、もはや茶番とも言える内容でした。
植民地政府は、裁判官には賄賂を贈り、証人にはウソの証言をするように仕向けて、ケニヤッタらKAUのメンバーをスケープゴートとして、仕立て上げていきました。
※スケープゴート・・・ある集団に属する人がその集団の正当性と力を維持するために、特定の人を悪者に仕立てあげて攻撃する現象、またその対象のこと。
このケニヤッタの通訳者として、ケニアの古人類学者であるルイス・リーキーがいました。リーキーは、ケニヤッタへの偏見に基づき、誤訳を指摘され、この裁判から退いていました。
ちなみに、この後、リーキーは、ダーウィンが唱えていたヒトの祖先がアフリカ大陸にいたことを裏付ける世紀の大発見をすることになります。
↓ 「ルイス・リーキー」については、こちらをどうぞ。
ケニヤッタ、刑務所へ…
1953年4月、こうした茶番とも呼べる裁判が終わり、ケニヤッタの法廷での演説もむなしく、重度労役処分が言い渡されました。
その後、ケニヤッタらは、ロキタング(Lokitaung)に設置された刑務所で、強制労働者として6年間を過ごすこととなります。
ケニヤッタ以外のメンバーは、ここで炎天下で岩を割ることを強いられていましたが、ケニヤッタが高齢だったこともあり、料理人を任され、豆とウガリ(白トウモロコシの粉を湯がいて練ったもの)を毎日作っていたそうです。(よかった?ネ)
また、ケニヤッタは、この時、同じ刑務所に入れられていた未成年の人物によって、刺殺されそうにもなりましたが、後から捕られられたマウマウ団のリーダーによって命を救われるといった出来事も起きています。(ほんとにラッキーだったんだな、この人…)
ケニヤッタ、釈放される…が!
このロキタングでの刑期を終え、釈放されたケニヤッタでしたが、1959年4月になると、今度はロドワル(Lodwar)と呼ばれる人里離れた砂漠の地へと強制送還され、そこで無期限の自宅軟禁処分とされてしまいました。
そこで、ようやく4番目の妻であるエンジナ・ムホホと再会し、3人の子供を授かることになりますが、ここで生まれたウフル・ケニヤッタは、のちにケニア第4代大統領になることとなります。
ケニア独立の機運が高まる
ケニヤッタが刑務所での生活を余儀なくされている間、さまざまなコトが起きていました。
反植民地活動家であったルオ族のジャラモギ・オギンガ・オディンガは、
ケニヤッタの釈放を求める運動を起こして、ケニア独立を願う国民から支持を集めていきました。のちにこの人物は、ケニア初代副大統領に任命されることとなります。
ケニヤッタに同情的であったイギリスの作家モンタギュー・スレイターは、不当な裁判の様子を『ジョモ・ケニヤッタの裁判(The Trial of Jomo Kenyatta)』として発表し、注目を集めました。
ケニヤッタら裁判で重要な証人となったローソン・マチャリアは、その証言が虚偽であったと誓う宣誓供述書に署名をし、広く公表されることとなりました。
こうした動きから、投獄されたケニヤッタは、いつしかアフリカ大陸におけるアフリカ民族主義の象徴となり、それを知った世界各国のリーダーたちもイギリスの帝国主義を非難するとともに、ケニヤッタの釈放を求めるようになりました。
マウマウ団の乱、終結
ところで、1952年に行ったマウマウ団の乱ですが、1956年に、ケニア植民地政府が指導者であったデダン・キマジ・ワシウリという人物を逮捕したことにより、ようやく終結へと向かいます。
このマウマウ団の乱によって、命が失われた人の数は、
マウマウ団側:11,503人
植民地政府側:イギリス入植者 95人、親植民地派アフリカ人 1,920人
であり、長期化したこともって、多くの犠牲者が出す結果となりました。
また、これ以外にも、劣悪な環境下の収容所に送られ死亡したキクユ族が約2万人程度いたそうです。
そして、この反乱により、イギリス軍は、ケニア植民地予算の4年分に匹敵する巨額の戦費支出を余儀なくされることとなりました。
これによって、イギリスはついにケニア植民地に見切りをつけることとなり、1960年1月、非常事態宣言の解除に伴い、イギリス政府はケニアを解放する意向があることを公表します。
ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)結成
同年1月、こうした経緯から、イギリス政府は、ケニアの反植民地運動の代表者をロンドンにあるランカスターハウスに招き、ケニア独立について話し合うこととなります。
ここで、ケニヤッタが会長を務めていたケニア・アフリカ連合(KAU)は、ケニヤッタの釈放を要求しますが、この時点では無視をされていまいます。しかしながら、このランカスター会議において「アフリカ人主導による、1963年12月のケニア独立」という決定がなされ、いよいよケニア独立が現実のものとなります。
これにより、ケニア独立に向けた足並みを揃えるべく、ケニアの政党を結成しようといった動きとなり、1960年6月11日、ケニヤッタの釈放を求める運動を起こし、リーダー的存在となっていたジャラモギ・オギンガ・オディンガと、同じく運動に参加していたトム・ムボヤが、自身の独立運動グループとケニア・アフリカ連合(KAU)と合併をさせ、新しくケニア・アフリカ民族同盟(KANU:Kenya African National Union)という政党を結成します。
この政党のメンバーは、ケニヤッタの出身であるキクユ族とオディンガの出身であるルオ族が中心となっていました。
また、この政党の党首は、ジョモ・ケニヤッタが選ばれましたが、未だ無期限自宅軟禁処分であったことから、代わりの人物が党首を務めていました。
一方で、ケニヤッタを始め、ケニア国民の多数を占めるキクユ族によって、独立したケニアの国家運営を任せることに不安を持つ少数派民族(マサイ、サンブル、カレンジン、トゥルカナ族)は、KANUとは別にケニア・アフリカ人民主同盟(KADU:Kenya African Democratic Union)という政党を結成することになります。
ケニヤッタ、今度こそ釈放される
1961年2月、第一党を決める総選挙が行われ、仮にもケニヤッタを党首とするケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が勝利することとなります。
こうした政党が第一党に選ばれたこと、ケニヤッタ釈放を求める声が次第に大きくなってきたこと(署名活動や大規模なデモも行わるようにもなり)もあり、1961年8月14日、ケニヤッタの無期限自宅軟禁処分が解かれることとなりました。
そして、正式にKANU党首に任命されたケニヤッタは、1962年にイギリス政府との交渉のため、ロンドンのランカスター会議に出席し、ケニアの独立条件について、交渉を行いました。
その結果、ケニアを「ケニア共和国」として独立させることが採択され、新しく憲法が制定されることとなりました。
ケニア、ついに独立を果たす!
1963年5月、新憲法のもと再び選挙が行われ、再びケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が勝利し、ジョモ・ケニヤッタがケニア臨時政府の初代首相に就任することとなりました。
そして、ついに1963年12月12日深夜、ナイロビにあるスタジアムで、大観衆の見守る中、ケニアの国旗が掲げられました。
そこで、ケニヤッタはケニアの独立を宣言し、その1年後である1964年12月12日、ケニアは正式に「ケニア共和国」となり、ケニヤッタは、初代大統領に任命されました。
この12月12日は、ケニアでは独立記念日として国民の祝日に制定されています。※現地では「Jamuhuri Day」と呼ばれています。
おわりに
以上が、ケニアがイギリスからの独立を果たし、ジョモ・ケニヤッタがケニア初代大統領になるまでのお話でした。
苦難の末、ケニアがやっとこさ独立を果たしたことが伝わればええなあと思い、いろいろまとめつつ、書いたつもりですが、結果、1万字以上も書くことになりました。
また、今回書いていく上で、ケニヤッタ自身の努力もありますが、とても運にも恵まれた人物であることも発見できました。このことから、神に愛された人物としても捉えられたかもしれませんし、こうした人物をリーダーにしようと思ったのかもしれません。
※かつて源頼朝が、何度かピンチがあったものの、これを自身のラッキーで回避できていた話と、よく似ている…
他にも、この歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!