ちゃぶ屋の功“財”
~ ちゃぶ屋の歴史 ~
ちゃぶ屋は1996年三河島に誕生した。正式な店名は『柳麺ちゃぶ屋』。ちゃぶ屋という言葉の意味は“いい加減な”、“手を抜く”仕事をする人というもので、15歳から洋食のコックの修行に入った店主森住康二につけられたあだ名でもあった。
その後、各地のホテルなどを転々としキャリアを積んでいったが、自分の店を持つに至らず、ふと出会った『ラーメン花火』というチェーン店の人材募集が目に止まり(※漫画『一杯の魂』より)、ラーメンの世界に飛び込むことになる。その後スーパーバイザーなどの職を経て、三河島にあった店舗を安く譲渡してもらい、念願の店を持つことになった。
苦労を重ねながら、2001には護国寺に移転。移転と同時に小さい頃から親しんだ遠藤製麺から自家製麺へとシフトする。その後の活躍は目覚ましかった。表参道ヒルズに『MIST』を開店、コース仕立てのラーメンというジャンルを切り開いた。また、香港のMISTはミシュランで星1つを獲得。純粋なラーメン専門店ではないが、ラーメン業界にはじめてミシュランスターが誕生させた
また、弟子たちも多く羽ばたいた。ちゃぶ屋のマインドを踏襲しながら、形にこだわらない弟子たちの活躍は、ちゃぶ屋が示したラーメンの可能性をさらに広げていった。
だが、ちゃぶ屋は多店舗展開などもあり、経営がうまくいかず2012年に閉店。森住さんはその後趣味のカーレースなどに勤しみ、ラーメンの舞台に戻ってくる気配すら感じさせなかった。
それが2022年千葉の神崎町に『みっかぼうず』という名で突然にラーメン界に復帰を果たす。現在は移転準備中ということで店は営業していないが、じきに大網白里で開店するという。
~ 外へと向かう力 ~
僕も含めたある一定の世代の人たちにとってちゃぶ屋という看板は長らく冀求の対象であった。その時代が遠くになりつつあっても、そして、ラーメンが料理として世界的に認証を得るようになった現在も、ちゃぶ屋という名は影響力を保ち続けているように思う。
それは佐野実の『支那そばや』のような存在でもあるが(いみじくも両者ともに洋食のコック上がりである)、求道の方法論は違い、ちゃぶ屋は、もっと幅広い層の人達に食べてもらうための仕掛けも重視したように思う。それがMISTのミシュランにもつながり、きっと日本に留まらないラーメンの魅力を世界の人びとに知ってもらうきっかけになったのだ。
一方、味では、(ラーメンが)ローカルフードの枠組みを逸脱しないところで、つまり、奇抜なものではなく、ラーメンの本来的な魅力を損ねぬままに、新しい要素を取り入れ、世界の人たちを唸らせた事実はラーメンの歴史の中でも画期的な出来事だと言ってもいい。
一杯の丼で、ほぼすべてを表現しきってしまうラーメンは、ワンプレートディッシュのような簡潔さと、それでいながら奥深く多面的であるという一見矛盾したような魅力を持っている。
佐野実の方法論がラーメンのコアな部分によりフォーカスし、内向きだったものと違い、より多くの人たちにリーチする力をラーメンに与えたのがちゃぶ屋だったのではないだろうか。
~ 系列店、弟子の店 ~
先に書いたとおり、ちゃぶ屋は様々なブランドを展開しながら、次々に弟子も巣立っていった。三河島時代には、はな火屋(新宿)、ぶしょう屋(池袋 ※閉店)、OKAZAKI(桜上水 ※閉店)などを排出、護国寺に移転すると、斜向かいに系列店のちゃぶや しおらーめん ぶらんちをオープン。のちに味噌専門店を御徒町に開いている。
また、三河島時代の弟子では後年麺屋Hu-lulu(池袋)も誕生した。護国寺以降の弟子となると、鳴龍(大塚)、マタドール(北千住)、柳麺呉田(北浦和)、麺たいせい(亀有)、地球の中華そば(金沢文庫)などが出ている。
一覧は以下。(※は閉店)
これらの店をおおざっぱに言うと、ちゃぶ屋のコピーはどれひとつもなく、各店の個性が出ているということになるだろうか。ちゃぶ屋は確固たるスタイルを確立したが、そのスタイルとは、外向きの柔軟なエネルギーに満ちしている部分を多分に含んでいる。それがこれらの店に違う個性を花開かせ、また、森住氏自身の修行経験とキャリアがあるからだろうか、基本がしっかりと伝わり、多くの店が厳しい外食産業の荒波を乗り越え、いまだに営業を続けている原動力になってるのかもしれない。
そんな彼らを通して、ちゃぶ屋の財の部分を見つめてみよう。
〜 はな火屋@新宿〜
はな火屋は1997年創業。つまり、三河島時代の出身店である。ちゃぶ屋がその後、よりストイックな向き合い方を求道していく前の、初期プロトタイプをトレースしながら、長く続けていくコツも体現した店のように思う。そういう意味でも、ちゃぶ屋がラーメンらしさを身にまとう過程をその当時の形のまま残しているようなものだ。
ラーメンの本質を深堀りしていくというよりも、ラーメンというパッケージを煌びやかなショーケースに陳列さていくような、そんなところに位置していた当時のちゃぶ屋。そのマインドはここにも残っている。洗練の一途を辿るちゃぶ屋後期のラーメンではなく、三河島の味自体が非常に魅力的なラーメンだったことは、いまだにはな火屋が健在であるということがなによりの証拠になる。
〜 麺たいせい@亀有 〜
三河島に創業したちゃぶ屋は、いわゆる「96年組」である。ただ、ちゃぶ屋は出発点において、個性を全開にしたというよりは年々コンセプトがハッキリしてきたという印象がある。しかし、その過程を踏んだことが前述の「ラーメンらしい範疇で魅力を広げた」ことにつながったのかもしれない、と勝手に解釈している。
佐野実=支那そばやという革命はラーメンを劇的にラーメンの(携わる者を含めた)意識を引き上げ、それは本人がアイコニックになるほど意識的に果たされたようにも思うが、ちゃぶ屋はもっと洒脱でカジュアルに、「人のラーメンに対する意識を上げて」いったような気がしている。そのパッケージに相応しいよう中身をどんどんと変えていった、という感じだ。
美味しいものはそれだけで美しい。だが、美しい見せ方がひとつの情報となる時代にあってちゃぶ屋の志向は今のラーメンの礎にもなっていたととも言える。
たいせいは2007年の創業。ちゃぶ屋のブランディングが確立し、浸透していったあとの独立店だ。多くの人が抱く見た目も含めたちゃぶ屋っぽさを残したラーメンかもしれない。しかし、そのちゃぶ屋のアイデンティティとなった自家製麺ではなく、浅草開化楼の麺をいまでも使っているところが面白い。
ちゃぶ屋のパッケージを踏襲しながら繊細さよりも朴訥とした一杯といった感じだろうか。14年を経てもその姿勢は揺らいでいないように思えた。懐かしくも現代的な、ちゃぶ屋と今を繋ぐミッシングリンクのようなラーメンである。
〜 Hulu-lu@池袋 〜
2012年創業。三河島時代からのお弟子さんということだが、森住さん自身が一番弟子とも言っている。
店主がハワイ好きで内外の装飾や雰囲気にそれが表れているが、そのカジュアルな雰囲気が女性にもウケ、また、敷居の高い感じを与えない。そのカジュアルな雰囲気ラーメンの洗練度、奥深さとのギャップが一番の魅力だろう。ある意味ちゃぶ屋とは別のスタイルで、多くの人をラーメンに取り込む仕掛けをしていると言ってもいいかもしれない。
そんなHulu-luが2023年、修行時代の三河島ちゃぶ屋の味を限定てメニューとして復刻させた。それは『みっかぼうず』としてラーメン界にカムバックした師匠に捧げる意味合いがあったのかもしれない。
以下はその時のインプレッションである
~ 柳麺マタドール ~
2011年創業。牛出汁のスープとローストビーフのトッピングで一世を風靡した『牛骨らぁ麺マタドール』から派生したお店だが、残念ながら短期間で閉店してしまった。『マタドール』自体は味噌専門店も含めて、変わらずに営業を続けている。
屋号に柳麺と入れたのは、無論、ちゃぶ屋をリスペクトしてのもの。コロナ禍を機に自分のルーツも含めて、やり残していることはないか、等を考えてオープンに至ったという。それだけに閉店は残念だった。
その柳麺マタドールに関するインタビューの
中での一文が、このアーカイブの趣旨とも合致するので紹介する。
〜 創作麺工房 鳴龍 NAKIRYU(大塚)〜
2012年創業。店主はホテルの中華料理出身。その後、護国寺『ちゃぶ屋』、系列店『表参道MIST』、『香港MIST』を歴任したあと独立した。香港MISTでは料理長を務め、ラーメンを提供する業態として初のミシュラン一つ星を獲得し、この自身の店もミシュラン一つ星に輝いた。ちなみに店名は日光東照宮の天井に描かれた鳴き竜からとったとか。
ミシュランへの掲載もあって日本で最も知られたラーメン専門店の一つに数えられる。だが、鳴龍の魅力は、そうしたインバウンドの顧客に対して特化したラーメンではなくて、伝統的で日式のラーメンのフォルムを崩していないところにある。そのマインドはまさにちゃぶ屋のマインドである。
だからこそ、行列の中に観光客と地元の日本の顧客が共存する。ラーメンが正しく世界的な評価を受けることは日本のラーメン好きにとっても嬉しいことであるし、列に恐れをなして食べることに逡巡している方にも是非日本を代表するラーメンとして食べてほしい。
~ みっかぼうず(神崎町)~
前述の通り、突如ラーメン業界に復活した森住さんのお店。現在は移転再開準備中。
そのときのインプレッションは以下。
~ 功財 ~
ラーメンの本来的な魅力を損ねずに世界を唸らせた、とは書いたが、ラーメンの魅力は拡散、多様性にもある。ただ一方で多くの人が、ラーメンらしい、と感じる魅力を、爆発的な中毒性と捉えれるならば、ある一定の様式美的な食と定義してもおかしい話ではないと思う。
つまり、何が言いたいかというと、ちゃぶ屋は出自(洋食)のエッセンスを散りばめながら、よりラーメンの正道を選択し、求道したということだ。そういう意味では支那そばやを対立軸として描いたが、実はアプローチこそ違えど、同じ大義に向かって、互いに寄り添うように独自の世界観を築いていったとも言える。
食の異なるジャンルから、ラーメン屋への転身というスタイルはよく見るが、成功するのは一部である。普通の会社員でも転職をした場合、前の会社のロジックを押し通してしまおうとする。成功しないパターンだ。
出る杭が打たれるわけではなく、文化の違いを知るところから何事もスタートするからであり、敬意を払うことが肝要である。ちゃぶ屋はラーメンへの敬意を払い続け、そして、その世界観は香港のMISTを経て鳴龍に至り、世界を満足させる結果へと導いた。
ちゃぶ屋の功財とはつまり、異業種から、もっともラーメンらしいコアの部分に意識が向かっていったこと、つまり、世界中の料理とラーメンが繋がっていることを示したこと、にあるのではないかと思う。
それがラーメンへの畏敬の心から生まれたと仮定したが、その純度が相当に高かったことに間違いない。故に会社としてはダメになってしまったのかもしれず、このは功“罪”の部分なのかもしれない。だが、その遺伝子は確実に世界に訴えかけ続けている。