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僕は文章を聞く人になる

文章を書くのは好きだ。
そして人の文章を読むのも好き。

僕はどんな文章が好きなのか考えてみた。
今はその人自身の気持ちがいっぱい詰まった文章が好き。
文章を読みながらその人と会話をしている気になる。
一緒にご飯を食べに行って雑談するような感じ。

そこにはノウハウとか、指導とか、そんなものではなくて、想いを共有し合う時間と空間がある。

文章の良いところは、映像と音声を自分の頭の中で作れることだと思っている。
文章を読みながら、勝手にその人の声を作る。
そして空間を作るともっと面白い。

この話を対面して聞くならこんなカフェかな。
座るのは横並びか対面か。
車の運転をしながら隣りに座っている時に聞く話かな。
その時の天気はどうだろう。
季節は冬かな。

いつ、どこで、どんなシチュエーションで聞くのかを想像してみる。

ただの文字ではなく、こうして空間をつけて読んでみると会話をしているような気になる。

この時、読み手側である僕は書き手側の気持ちに寄り添おうとしている。

多分、風景を思い浮かべたからだと思う。
文章が声になり、読むのではなく聞くような気持ちになっているからだろう。

読むのではなく聞く。

僕は聞き手の気持ちで人の文章を読んでいたことに気づいた。

そうするとふと疑問が生まれた。

文章だと、書き手が読み手目線になることを求められて、声だと、聞く側が相手の言葉を読みとくことが求められる。

書き手は、良い文章の書き方を学ぶことが必須だと思っているが、読み手として、人の文章を正しく理解する努力を推奨する人はあまり見ない。

文は書き手が読み手に合わせるもの。
いかに読み手が読みやすいか、分かりやすいかを重視する。

なぜ読み手が書き手に寄り添わないんだろう?

人の文章も、人の話も、どちらも同じ想いを届けている行為なのに。

文章を書くのが好きな人の中には、多分、口下手な人もいる。
そして、みんながみんな文章は書きたいけど、別に文章がうまくなりたいと思ってはいないのではないかと思う。

だってみんなライターじゃない。
どんな仕事でも文章は扱うけど伝わればいいという人もいる。

愚痴を言う、意見を主張する、が対面だと言えない。
だからゆっくりと、丁寧に時間をかけて文章を書く。
この時に考えることは何を伝えるかだろう。

僕は会話でも文章でも、いつだって受け取る側が手を伸ばして受け取りたい。

キャッチボールをしていて投げられた球が、明後日の方向に向かったとしても、それは投げた側が悪いってしたくない。

僕は文章を聞く人になろうと思う。

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