見出し画像

大人として養いたい 俯瞰とバランス感覚

今日は、私が、社会人にとってとても重要だと感じているバランス感覚について、少し述べたいと思います

世の中には善悪、長短、右左、白黒、上下、等色々な対極があります

皆さんも、例えば正しい・正しくない、という感覚はお持ちだと思います

しかしながらその感覚も、片方の立場からすると正しい、もう一方の立場からすると正しくない、と言うように、立場によってその判断は変わります

つまり物事にはそもそも正しいとか正しくないというものがあるわけではなく、判断する者の立場や考え方、環境等によって解釈されて「評価」されるのです

極端な話、殺人さえも有事の際には兵士同士の戦闘等として、さほど重視されないのはニュースなどでご存知でしょう

同様に、長短も左右も上下も、全て判断する者の「主観的評価」でしかありません

ここまでは、皆さん同意していただけると思います

ここからは私の経験に基づく私見です

繰り返しになってしまいますが物事にはそもそも正しいとか正しくないがあるわけではありません

なので、事が起こった瞬間に湧き出る感情はどうしようもないですが、起こってしまったことは過去のことなのですから、「起きた事柄に対して注意を向けることは必要ない」と思っています

では何に対して注意を向けるのか

それは、瞬間に湧き上がった自分の気持にたいする理解と、出来事を起こした者の立場と考え方、だと思っています

例えば上司からの指示に、「えー、それ、なんの意味があるの?」とか、「前言った事と違うじゃない」と瞬間的には思うかもしれません

ですが、そんな自分の気持ちが何故湧いてきたのか、ひょっとしたら必要以上の承認欲求や、これ以上努力したくないという気持ち、あるいは自分の努力の結果に対する価値を下げたくないという防衛?など、自分の気持ちを理解することで冷静になれます

加えて、「この上司はなぜこんな指示を出したのか」あるいは、「誰がこの指示を出すことにしたのか」等を考えてみると、改めて気付かされることもあるはずです

つまり私達がまず考えなければならないことは、自分も含めて、いろんな立場の考え方を知り、その背景やそれに至った経緯等を確認して俯瞰することなのです

一見意味が無いように感じる指示であっても、他部署からの違う知見に基づく指示であれば、むしろ他部署の存在を意識せず行動したことを反省することもあるでしょう

また、朝令暮改だと思った指示も、更なる上位者の思惑や会社全体の情勢から方針が翻ったのかもしれませんし、顧客の要請に基づくものかもしれません

単に「え~」っと思ったのは、自分が背景や経緯に関する情報を持っておらず、自分がやってきたことの正当性を否定されたり、方針を反故にされたように感じたのです

そのことにより、自己承認や価値観を無自覚に害されたと思った故の評価なのです

ですから、背景や経緯を知れば、正しい指示だと納得できることも多いのです

このように全体を俯瞰して評価し冷静に判断することを、私は社会人としての持つべきバランス感覚だと思います

言い換えれば、自分の頭で考えろということであり、短絡的な思考や自動思考に振り回されないということでもあります

自動思考といえば、例えば電車内で老人に席を譲ることは正しいことで、目の前に老人が立っていて若者が座っているのは良くないという認識があります

これは、公共交通機関の「お年寄りには席を譲りましょう」というキャンペーンがもとだと記憶しているのですが、これは当時の弱者優遇というマナーの啓蒙であり、これを安易に道徳観や価値観としてしまうのは無理があると思います

昨今の老人はハイキングや旅行に行くくらい元気ですし、例えばそんな老人に、夜勤明けで疲れ果てた社会人が席を譲るのは不合理です
むしろ、元気な老人がしんどそうな若者に席を譲るなんてことも、あっても良いと思います

しかし現実は、よく身勝手な老人が電車内で座っている若者の前に立って席を譲れとばかりに睨んでいる光景を観ます

これは自分の少しでも楽をしたいという欲を前述の道徳観と無自覚に結びつけて、自分は正しいくて眼の前の若者が正しくないと思い込んでいるのでしょう

自分の欲求を自覚しているのなら、「ああ、今日は席が空いてなかった、しょうがない」くらいにとどめて置けるはずです
私は身勝手な思いで他人を責めるような、こんな自動思考が大嫌いです

また、以前コンビニのレジで若者が店員にクレームを付けている方を見かけることがありましたが、仮に店員が不適切な言動をしたとしても冷静に指摘すれば良いものを、怒鳴ったり物に当たったりするも同じで、精神の未熟さ稚拙さしか感じません

これなども発端は、1970年代に三波春夫という歌手の「お客様は神様です」というMCフレーズが流行ったおかげで定着した価値観だったと記憶しています

ですが、そもそも歌手である三波春夫は、神に捧げるような最高の歌(商品)を歌う(提供する)という気持ちで歌うべきであると、言ってみれば作り手としての心構えを説いたフレーズだとどこかで読んだ記憶があります
また、流行り廃りだけで右往左往している当時の他の歌手に対する戒めの意味もあったかもしれません

これを言葉面だけで、お客は神様だから何をしても良い、神様である客の言うことは逆らえない、などという愚かな解釈をして道徳観と結びつけたのでしょう

私に言わせれば、先程同様自覚なく自分の欲求を正当化するように曲解しているだけです

常に自分の欲求や感情と向き合い、相手の言葉に右往左往せず、「何故目の前のこの人は、今この瞬間にこの言葉を私に伝えたのだろう」と俯瞰するよう心がけなければ、本質に向けての対処はできません

自省も含めてこのような「常識にかこつけた無自覚な我儘」に振り回されないようにしたいものです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?