「闇堕ち」してしまったUX概念を再定義する
『UX(User eXperience)』という概念に、注目が集まっている。ここ数年で、UXリサーチャーやUXデザイナーといった職種に就いている人の数は大きく増加した。専門家だけではなく、経営者を始めとしたビジネスパーソンの間でも、UXの認知度や関心度は高まっているようだ。一見したところ、『UX』という概念は順調に世の中に普及しているようにも見えるが、実はその裏側で存在意義を揺るがすような「危機的な状況」に置かれている。
もともとUX / UXデザインは、企業とユーザの間にwin-winな関係をもたらし、人々の生活を自由で豊かにできる体験が次々と生み出されるような社会の実現を目指す概念 / 行為であった。UXを重視することで、企業は人々の生活に役立つ体験を創造・提供できるようになる。良質な体験を提供しているから、その企業は顧客に選ばれるようになり利益・売上が高まる。利益・売上が高まるから、企業はさらに人々に役立つ体験の創出にリソースを投資できるようになる。こういった循環が回ることで、社会全体が人間にとって自由で豊かなものへと更新されていく。様々な状況に置かれた個々人が、それぞれの善き生の構想を実現するために自由に行動できる社会となっていく。このような社会を実現することが、もともとUXが抱いていた思想だった。(図表-1)
しかし、UX概念が企業に普及した結果、UXが目指す理想は正反対のものに変化してしまっている。いつの間にかUX / UXデザインは「企業・設計者サイドが意図する通りに、人々を思い通りに動かす / 操るための手段・技術」として捉えられるようになっているのだ。
私はコンサルタントとして様々な企業のUXデザインに携わっているが、「ユーザを〇〇な気持ちにさせるような体験を設計してほしい」や「ユーザの〇〇な行動を誘発するような体験を設計したい」という要望を受けることがある。そこには「どういったユーザを、どのように豊かにしたい」といった思想が存在することは少ない。そこにあるのは「ただ自社サービスを顧客に売って、短期的な売上・利益を稼いでKPIを達成したい」というビジネスニーズだけである。もともとUX / UXデザインが目指していた思想は跡形もなく消え去っており、いつの間にか「企業・事業部のKPIを達成するために、ユーザの心理・行動をうまく操作・誘導する」というコントロール思想にUX / UXデザインがべったりと染まってしまっているのである。(図表-2)
図表-1(UXが目指す理想)と図表-2(UXが直面している現実)を比較すると分かりやすいが、もともとUX / UXデザインが目指していた思想は、UX概念の普及・流行とともに全く正反対のものへと反転してしまっている。
中二病的に表現するならば「UXの闇落ち」である。このような背景から、UX / UXデザインは存在意義を揺るがすような危機的な状況に置かれているのだ。
いつから、なぜ、UX概念は企業の短期的な売上・利益を実現するために人々の生活に不自由をもたらし、ディストピア社会の形成に加担するような概念にすり替わってしまったのだろうか。本記事は、UX / UXデザインの思想・役割が闇落ちしてしまったメカニズムを明らかにしたうえで、このような状況を打破するための打ち手を明らかにすることを目指す。
結論から言うと、UX / UXデザインがこのような状況に陥ってしまった原因の1つは「UXの定義が適切ではないこと」にあると私は考えている。そこで、現時点で広く普及しているUXの定義が抱えている問題点を明らかにした上で、UXをどのように再定義するべきかを考えていく。
UXの定義・解釈が抱えている問題点
UXの定義は様々なものが存在するが、事実上の公式見解とされているのは、ISO9241-210に基づく次のような定義である。
やや分かりにくいので要約すると、ISOの定義では「人間が製品・サービスを使用した結果として生じる知覚・反応」が、UXであるとされている。このような定義では、「UXとは何か」はまだボンヤリしており、直感的には理解しづらい。そこで千葉工業大学の安藤教授は、以下に示すような概念図を提示した上で、UXとは「製品やサービスを利用する際に、ユーザの中に生じるもの」という解釈を加えている。(図表-3)
そのうえで、UXを「予期的UX」「一次的UX」「エピソード的UX」「累積的UX」の4つに分類して捉える考え方を提唱している。このUXの定義・解釈は極めて分かりやすく、様々な場面で引用されており、企業がUXに取り組むにあたって広く参照されている状況にある。
しかし、このようにUXを定義・解釈すると、2つの問題点が発生する。
1つ目の問題点は、ISOの定義に基づいてUXを捉えると「UXデザイン」が
とても傲慢で、コントロール思想につながるものになってしまうことだ。
どういうことか説明しよう。UXを「人間が製品・サービスを使用した結果として生じる知覚・反応であり、人間の内面に生じるもの」と定義・解釈すると、UXデザインは「人間の知覚・反応(認知状態)を設計する行為」という定義になるのが自然である。(図表-4)
しかしながら、「設計者サイドが、ユーザの認知状態を設計する / できる」という考え方は非常に傲慢で、前節で説明したようなコントロール思想につながるものではないだろうか。
UXデザイナーは、ユーザの認知状態そのものを設計する訳ではない。以下の図表に示すように企業と顧客の結節点における「体験」を設計しているのである。自らが設計した体験がユーザにどう受け止められ、どのような行動変容に繋がるかは、ユーザの自由意志に委ねられていると考えるべきだ。あくまでユーザは、自らが目指す成功を達成するために行動している。ユーザは自らの行動目的を実現するうえで役に立つから、企業が提供する製品・サービスを雇用しているだけに過ぎない。それを、あたかも企業・設計者サイドがユーザの認知状態や行動目的を思い通りに操作・操作できるかのように捉えるべきではない。(図表-5)
もちろんUXデザイナーは、設計した体験が使用された結果として、「ユーザがこのような認知状態になって、こういった行動変容が起きると良いなぁ」という願いを込めながら体験を設計する。ただ、それはあくまで「願い」であって、ユーザの自由意志を操作・介入することはできないし、するべきではないことを前提としておく必要がある。
しかし、現時点で普及しているUXの定義・解釈を参照すると、UXデザインという行為は、コントロール思想に染まったものとして捉えられてしまう。UXデザインが「企業の都合が良いように、ユーザの自由意志・行動目的を操作・誘導するための行為・手段」として、容易に曲解されてしまうのだ。なぜなら、企業は常に短期的な売上創出のプレッシャーに晒されており、短期的なKPI達成のために、顧客を都合よくコントロールする手段をどうしても強く欲している側面があるからである。このように「ISOに基づくUXの定義・解釈」と「短期的なKPI達成圧力に晒されている企業」が出会い、結託した結果として、UXの思想は反転し、闇落ちすることになったのだ。
短期利益を追求しない「大学」や「研究機関」においては、ISOによるUXの定義は適切に機能していたのかもしれない。しかし、UX概念が「利益を追求する企業」に広まったことで、UX / UXデザインの思想をディストピア的なものへと闇落ちさせる力学が働いたのではないだろうか。
かくして、自由で豊かな社会の実現を目指したUX / UXデザインは、いつの間にか管理者によるコントロール思想を実現するための手段に堕ちてしまったのだ。(図表-6)
一般的に普及しているUXの定義・解釈には、もう1つ問題点がある。2つ目の問題点は、UXが扱える問題の範囲・射程が狭くなってしまうことだ。
「UXデザイン」と聞いてパッと思いつくのは、今ある製品・サービスの機能を使いやすく、分かりやすい形に具現化する作業ではないだろうか。具体的には、Adobe XD や Figmaなどのデザインツールを使って、画面設計 / ワイヤーフレーム設計を進めるような作業が思い浮かぶ。
では、ここで皆さまに質問させてほしい。「製品・サービスに新しい機能を追加して、提供価値を抜本的にアップデートする行為」は、果たしてUXデザインの範囲・範疇に含まれていると思われるだろうか。例えば、SUUMOのようなお部屋探しサービスに、「コンシェルジュがお部屋探しを支援・代行してくれる機能」を新たに追加して提供価値をアップデートする行為は、UXデザインと呼べるだろうか。例えば、既存の自動車に「電気で動く機能」や「自動運転機能」を新たに追加して、次世代型の電気自動車にアップデートする行為は、UXデザインと呼べるだろうか。
「どこまでをUX / UXデザインと捉えるか」には様々な解釈があると思うが、新しい機能を追加して、提供価値を抜本的にアップデートする行為は、さすがにUXデザインが扱うことのできる範囲・範疇を超えているのではないか、と答える方が多いのではないだろうか。
なぜなら一般的なUXの定義・解釈に従うと、「そもそも、どのような機能を調達して、どのような製品・サービスを創るのか」という論点は、UX / UXデザインが捉える問題の対象外であるように見えるからである。(図表-7)
上図のような解釈に基づいて考えると、「製品・サービスが有する主要機能は変えずに、ユーザへの見せ方を工夫することで使用体験を高めること」がUXデザインの役割であるとスコープ設定するのが自然な捉え方になる。
だからこそ、「iPhoneを始めとしたアップル社の製品を開封するときの体験品質の高さ・ワクワク感」が、象徴的なUXデザインの成功事例として大々的に評価され続けているのだろう。製品機能そのものにタッチせず、周辺体験を変えることで体験品質を高めることに成功した事例が、UXデザインの象徴として称えられているのだ。
しかし、もともとUX / UXデザインは、「そもそも、どのような機能を有する製品・サービスを設計するべきか」という論点を、テクノロジー起点ではなく、ユーザ体験を起点として考えることを含んだ概念であったはずだ。人々の生活を自由で豊かなものにするために、どのような機能を調達し、どのような価値を提供する製品・サービスを創るか / アップデートするかを考えていくことまでを、そのスコープに含んでいたはずだ。
恐らくは、今のようなUXの定義・解釈が広がった結果として、いつの間にかUX / UXデザインに対する世の中の期待は「いまの主要機能は変えずに、ユーザへの見せ方を変えることで、体験品質を高めること(≒マシなものにすること)」へと縮小され、限定的なものに押し込められてしまったのではないだろうか。(図表-8)
以上が、現時点で広く普及しているUXの定義・解釈が抱えている問題点と、UXが闇落ちするに至ったメカニズムに関する仮説である。
誤解してほしくないのだが、私は「ISOによる定義」や「UXはユーザの内面に生じるものという解釈」が全面的に間違っていると主張したい訳ではない。短期的な売上をKPIとして追求しない大学や研究機関にとっては、今のような定義・解釈をそのまま踏襲して良いかもしれない。しかし、UXが企業活動にまで普及し、KPI達成のための企画業務と結びつきつつある今では、ISOによる定義はUXの思想・役割を反転させ、闇落ちさせる原因となることを明確に認識するべき、というのが本記事の主張である。
我々は「企業が拠り所にするべきUXの定義・解釈」を設定する方法を間違えたのではないだろうか。そうであるならば、UXの定義を再設定する必要がある。この作業に取り組むことが、もともとUXが目指していた思想を取り戻し、自由で豊かな社会を実現するための活動の、少なくとも一歩になるはずだ。
UXとは「機能を体験化したもの」である
では、UXを企業活動に普及・浸透させていくことを見据えたとき、我々はUX / UXデザインをどのように再定義するべきだろうか。結論から言うと、UXとは「機能・ケイパビリティを体験化したもの」であると定義する考え方を提唱したい。(図表-9)
つまり、企業 / 設計者の視点からみると、「自社が調達できる機能・ケイパビリティを、ユーザが体験可能なものに落とし込んだもの」をUXとして捉えるということだ。例えば自動車メーカーは「人間の移動能力を拡張するプロダクトを製造〜販売する機能・ケイパビリティ」を有している。それをユーザが体験可能なもの(自動車、ディーラー店舗、Webサイトなど)に落とし込んだものをUXとして捉えるのである。
UXをこのように定義すると、UXデザインとは「機能を体験化すること」という定義になる。そうすることで、UXデザインは人々の生活に役立つ体験を設計する行為・手段であって、ユーザの認知状態・自由意志を操作・誘導するものではないことが明確になる。
また、このような定義・フレームワークを採用することで、UXデザインが対象とする範囲が過小評価されにくくなる。「そもそもどのような機能を調達して、どのような製品・サービスを創造するか or アップデートするか」を考えるフェーズから、「どのような体験に落とし込めば使いやすいか」を考えるフェーズまでの一連の流れを、UXデザインが対象としていることが明確になる。
新たなUX定義を採用することで、先に挙げた2つの問題点を解消できる、ということだ。
ちなみに「機能を体験化したもの」という新たなUXの定義は、ISOによるUXの定義を真っ向から否定するものではない。先ほど提示した枠組みにおいて生活者・ユーザの視点からUXを眺めてみて欲しい。「製品・サービスを使用した際に生じる知覚・反応」がUXであると捉えることは依然として可能である。(図表-10)
上図のフレームワークにおけるUXを「ユーザの視点」から捉えたのがISOによるUXの定義であり、「企業・設計者の視点」から捉えたのが本記事が提唱するUXの定義である。どちらの視点からUXを捉えるかによって、その定義の捉え方・表現方法は変わるのだ。
そのうえで、UXが企業にとって重要な取り組みとなり、企画業務と結びつきつつある今では、「企業・設計者の視点」からUXを定義する考え方を普及させていくべきではないか、というのが本記事の主張である。UXデザインをする主体は企業なのだから、企業の視点からUXを定義するべきなのだ。
そうした方が、UXの思想が正しく普及するのではないか。なんでもかんでも「人間中心 / ユーザ中心」で捉えるのは危うい。ユーザではなくUX(ユーザ体験)を中心に据えつつ、複数の角度からUXを捉える考え方を採用したい。
UXは、どこにあるのか?
新たなUXの定義について様々な切り口から説明を付け加えていくために、「結局のところ、UXはどこにあるか」という観点から説明したい。
(やや専門的な内容なので、必要に応じて読み飛ばしていただきたい)
これまでのUXの定義・解釈では、「UXは、ユーザの心の中に生じるもの」と捉えられていた。心身二元論的に「心・内面」と「身体・外部環境」の2つに世界を分けて捉える考え方を採用した上で、UXをユーザの心・内面に生じるものとして位置づけてきたわけだ。
では、新たなUXの定義(=機能を体験化したもの)においては、UXはどこにあると捉えるべきだろうか。結論から言うと、「ユーザと機能が交わる結節点」にUXは存在していると捉える。
UXを「機能を体験化したもの」と定義すると、ユーザの外側にあると思われるかもしれないが、それは違う。新たな定義においては、UXはユーザの内側でも外側でもなく、それらのちょうど境目・境界地点に存在すると捉える。現象学的に、人間の内側と外側を分けないで捉えるのである。(図表-11)
なぜ境界地点にあると捉えるかというと、UXというものが「ユーザ側の状況」と「機能側の状況」の共同作業によって構成されるものだからである。
直感的に分かりづらいので、具体的な例を挙げて説明する。ここでは、ビール飲料を例に説明しよう。当たり前ではあるが、「プレミアムビール」と「発泡酒」では、それぞれを飲んだ時にユーザが知覚する体験は異なる。これは、プレミアムビールと発泡酒ではプロダクトが有する機能が異なるためである。
一方で、同じプレミアムビールを飲むにしても、「一杯目のビール」と「2杯目以降のビール」では、ユーザが知覚する体験は大きく異なる。同じように「仕事終わりに飲むとき or 休日の昼間から飲むとき」では知覚する体験は異なるし、誰と一緒に飲むのかによっても体験は異なってくる。
これらを総合すると、ユーザが知覚する体験は「機能側の状況(プレモル or 発泡酒)」と「ユーザ側の状況(仕事終わり or 休日の昼間など)」の双方の影響を受けて決定されることになる。
このため、「UXはどこにあるのか?」と尋ねられたら、人間の内側でも外側でもなく、その境界地点(=ユーザと機能の結節点)に存在する、と答えることになるのである。(図表-12)
UXデザイナーには、「機能側の状況」と「ユーザ側の状況」の双方を深いレベルで理解した上で、体験を設計・創造することが求められる。こういった活動を通じて、世の中に存在する機能それぞれが生活者の役に立つ状態を実現し、人間と企業 / 機能の幸せな関係を築くことがミッションとなる。
「新たなUX」がアフターデジタル時代の経営イシューに
UX / UXデザインを「機能を体験化したもの / すること」と再定義すると、
企業がこれからUXに取り組むべき意味・理由も明確になる。
アフターデジタル時代が到来したことで、企業は「デジタル技術」を自らが調達できる機能・ケイパビリティとして、新たに取り込めるようになっている。例えば、これまで自動車メーカーは「移動能力を拡張するプロダクト」を製造・販売するケイパビリティしか有していなかった。ところが今では、新たに入手したデジタル技術を体験化することによって、「友人と一緒に遊び計画を立案できるアプリ」や「旅の思い出を共有できるアプリ」などをユーザに提供できるようになっている。
このような外部環境の変化によって、企業は「製品・サービスを提供する存在」から「特定シーンにおけるユーザの行動フローを横断的に支援する存在」に提供価値やビジネスモデルを抜本的に転換できるようになっている。いわゆる「バリュージャーニー型」への変革が可能になっているのである。(図表-13)
このあたりについては、UX戦略の教科書シリーズにて詳しく解説している。必要に応じて参照してもらえると有難い。
いずれにしても、デジタル技術が普及したことで企業が調達できる機能・ケイパビリティが大きく拡張しているため、「新たに入手した機能をどう体験化するべきか」を考えることが今後の経営イシューになっていく。
もしかすると、直近はデジタル技術の進化にキャッチアップすることで精一杯で、「新たに入手した機能をどう体験化するべきか」という論点にまで手が回っていない状況かもしれない。ただ遅かれ早かれ、デジタル化によって新たに入手した機能を体験化することによって、企業競争力を高めることを目指した企画を考える必要性が認識される。それがボトルネックとして強く意識される時代がやってくる。
UX / UXデザインを「機能を体験化したもの / すること」として定義すると、UXは今後の経営イシューど真ん中になる。企業は短期的な売上を高めるためだけにUXに取り組むべきではない。アフターデジタル時代における、中長期的な競争優位性を構築するためにも、UXに取り組むべきなのである。
プラットフォーム時代におけるUXの可能性
最後に、UXのさらなる可能性について、少しだけ触れておきたい。
これまで企業の存在意義は、独自の機能・ケイパビリティを調達し、それを体験化することを通じて、人々の生活に役立つ道具(製品・サービス)を提供することにあった。しかし、これから企業のプラットフォーマー化が進んでいくと、企業の提供価値・存在意義は「複数プレイヤーの利害関係を調停したり、補完関係を構築すること」へと変化していく。このことは、これまで法律・司法・政治が果たしてきた社会秩序を形成する役割を、プラットフォーマー企業が代替できる(代替できてしまう)ことを意味する。
このような変化は、人々の生活をさらに自由で豊かなものに変えるチャンスであるとも捉えられるし、コントロール思想に染まったディストピア社会が訪れるリスクであるとも捉えられる。こうした外部環境の変化が起きたときに、UXには一層の誠実さが求められることになる。また、UXには「機能を体験化すること」よりも広範囲な役割が求められていくと予想される。例えば、プレイヤー同士の利害関係をスムーズに、楽しみながら調整できるようにする、などのような役割である。
「プラットフォーム時代において、UXをどう再設定するべきか」という論点については、また別の機会に詳しく考えることにしたい。
最後に
このような長文を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
今後も不定期ではありますが、継続的に記事を書いていこうと考えています。noteの更新情報はツイッター(@takashikoshiro)にアップしますので、宜しければフォローいただけると嬉しいです。