モンターニュのつぶやき「自己表現とは心の翻訳作業」 [令和3年5月16日]
[執筆日 : 令和3年5月16日]
「言語の能力を獲得した人間は、ちょうど水そうに穴があいたようなもので、その穴から絶え間なく、そとにむかって内部世界を放出しはじめる。(中略)つまり子どもが、ことばを使っておしゃべりをはじめるのは、人間にそなわった基本的な衝動にもとづくものであって、しゃべられることによって得られる社会的な効果など無関係なのである。(中略)言語表現とは、こころ、という名の大きな電池の放出現象だ、ともいえるだろう。電池は、人間のさまざまな行動によって、つねに充電されつづけている。それが言語という回路で、すこづつし放電されるのだ。放電しなければ過充電になってしまうから、しゃべらないわけにはゆかないのである。(中略)カタルシス、というのは、こころのなかにたまった不満だの複雑な感情だのが解放されて、こころを軽快にする作用のことだ。あんまり上品なたとえではないが、それは、精神の便秘にたいする下剤のようなものかもしれない。しゃべってしまうと、たまっていたものが吐き出されて、すっとするのである。」
加藤秀俊「自己表現を文章どう書くか」
人間は意識の脳と無意識の心(情)から構成された存在という風に考えると、意識の方は、一般的には論理を表現する言語で表現できる訳ですが、心の方はどうも言語では表現しきれないものが残るということになりましょうか。
昨日、部屋の本を少し片付けていたら、大分昔に購入した加藤秀俊(1930-)さんの「自己表現 文章をどう書くか」(中公新書、初版1970年、私の持っている本は1997年の34刷)を、最初は眺める程度に見ていたら、私の関心のある言語の話もそうですが、人は何故表現するのかという話が出てきて、「おお、そうかそうか、私のつぶやきは精神の便秘から発生しているものだったか」と。
つぶやかないと、過充電になって、精神的安定を欠くから放電としてのつぶやきをしている、ということになるようですが、確かに、子供はしゃべることがどのような(社会的)効果をもたらすかなど考えてしゃべっている訳でもないでしょう。このつぶやきがそうした子どものおしゃべりと同様に、社会的効果というものを意識していないかと言うと、大人の私ですから、それは全くないということはありえないと思います。私のつぶやきは、今日の私が明日は別の私になっているかもしれない、今が永遠の時間であるとは言うけれども、私自身が今日の私を忘れるかもしれない、そういう杞憂のようなものが心の何処かにあるから生まれているものなのでしょう。認知症が高齢者にはつきもの、宿命的な病のような現代において、私とはどういうものであるかを日々確認するための行為、まあ、そういうことがつぶやきなんでしょう。つぶやきを心の状態とすると、悪く言えば、精神の便秘状態、でも、良く言えば、心のエネルギーが溢れている状態ということですし、何事も良い面を記憶するのが一番です。
加藤さんは、米国の女性哲学者スーザン・ランガー(Susanne K Langer1895-1985)を引用しておりますが、例えば、
「人間内部のこころの状態と言語の関係を、哲学者のスーザン・ランガーは、大きな海と小さな孤島にたとえた。ランガーによれば、人間の直接体験の世界は、感覚という大海である。それは果てしなく、そして深い。そして、それは個々の人間の内部にあって、第三者には、うかがい知ることができない世界だ。その世界の一部を、われわれは言語いして、そとにむかって「表現」する。しかし、そんなふうに「表現」できる部分というのは、感覚の大海にくらべれば小さな島のようなものでしかない。われわれが言語化できる部分、他人につたえることのできる部分は、われわれが、じっさいにこころのなかで感じていることにすべてにくらべれば、じつにわずかなものだーランガーはそういうのである。」
ランガーという哲学者は、芸術における哲学を極めた人のようですが、学問は、おしなべて言語化、或いは数式化できることが基本でありましょうが、心を言語で表現できるのは、外部に開かれたほんの一部部分だけであって、多くは秘せられたままで、普段は意識していない、鈴木大拙的に言えば、潜在意識下にある訳でしょう。
つぶやきがもたらす、意外な発見というのは、そうした言語化していないものに出逢うというか、触れる機会を与えてくれているような気がするということでしょうか。
加藤さんは、以下のように、「自己表現」を個々人の直接体験の世界を、他人に伝えるための努力と規定し、それは心の翻訳作業でもあるとしています。自己表現とはそれぞれの心を他者に対して伝えるための、努力を伴った翻訳作業というのは、嬉しい表現ですね。そうした翻訳作業でもあるモンターニュのつぶやきでありますが、書き手と読み手の間の、心の交歓があってこそ、自己表現は意味があるのだろうと思います。なお、加藤さんの「自己表現」は、言語の哲学的な話よりも、日本語を如何にして、社会性のあるメッセージ表現のある言語にするかという側面からの、技術的提言の本でありますので、念のため。
「人間のこころがどのような構造と機能をもっているかについては、昔から多くの哲学者や心理学者が探求をつづけてきたが、その正体はまだよくわかっていない。しかし、われわれが経験的にほぼたしかなこととして知っている事実がひとつある。それはわれわれのこころが、つねにはたらきつづけている、という事実だ。」
「本人しかわからないこのような「こころの状態」は、「実感」ということばで呼ばれたり、「体験」と呼ばれたり、あるいは、「実在」と呼ばれたりする。それは、ひとりの人間が宿命的に、死ぬまで自分の内部にかかえこんでいなければならない性質のものといってよい。そういう、内部的な体験の流れが、お互いの人生というものだ」
「じぶんの直接体験の世界を、他人につたえるために、われわれは、いろいろな方法を使う。そのための努力を、「自己表現」ということばで呼ぶことにしよう。じぶんは、いま、こんなふうに感じている、じぶんは、これこれの意見をもっているーわれわれは、それぞれの「こころの状態」を、内部状態としてではなく、外部状態に変えようとしているのである。ことばを発することによって、あるいは手ぶり身ぶりによって、その変換がおこなわれる。「表現」というのは、いわば、人間の内がわを、そとにむかって翻訳する作業なのである」
最後に、野球の天才的プレーヤーのイチロー選手もそうですが、ある動作のパーフォーマンスを高める上で、いわゆるルーティン的な動作が重要であると言われておりますが、ルーティンをどのような状況下でも出来る人は、超一流なんでしょう。こうしたルーティン的動作は、最初は意識しないと出来ない訳ですが、それが無意識でも出来るようになることが上達の一つの証になります。他方、私たちの日常性は言わば日々のルーティンの中にあります。毎日、毎日同じことを無意識でやっていますと、脳は基本怠けるのが大好きでありますので、脳の退化が進みます。でありますから、そこにはいわゆる認知症のリスクがありますので、多少のバリエーションを意識的に行う、脳に、身体に、そして心に刺激を与えるようなバランスが大切という、これも至極当たり前のことに気をつけないといけない訳です。当たり前のことに気づくことと、当たり前のようにするというのは、言うは易く行うは難しという事でありますが、来週は、そうした当たり前の事がどうしたら出来るようになるかを考える週にしようかなあと思っております。
(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?