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モンターニュのつぶやき「貴方はデクノボウになれますか」 [令和3年4月20日]

[執筆日 : 令和3年4月20日]

 梅原猛さんが言う、日本の思想に流れる生命、心、地獄の3つの原理ですが、今回、山折哲雄「17歳からの死生観」(新潮文庫)、ひろさちや「「孤独」すすめ」(BS新書)を読んで、まさしくそうだなあと思うのです。
 私がこれまでに読んだ山折哲雄さんの本は、岩波書店出版の本が多かったのですが、今回新潮文庫の本を読んで、素直に良い本だなあと思いました。将来リーダーとなる気持ちのある高校生の養成塾(「日本の次世代リーダー養成塾」)での6年間に亘る講演記録を文字化した本ですが、色々と勉強になりました。
 後世に影響を与えたであろう日本人、あるいは外国人を紹介しながら、日本人の心を考えさせられる内容の講演で、17歳の高校生よりも、大人たちが聞いたらもっとよかったかもしれないと思う話が満載でした。
 宮沢賢治はなぜ黒い装束をまとっていたか、賢治の作品には風が登場するのは何故かという話、日本人初の金メダリストの水泳の前畑秀子が残した3つのキーワード「母」「死ぬ気の覚悟」「神様」と比較した現代人の「じぶんらしく」「楽しく」「笑顔で」のキーワードの違いの話、ガンジーの非暴力・系譜の話、寺田寅彦の地震に関する話、何故英国とフランスで自然科学が発達したかの話、日本人の心のDNAの話、日本人の無常観の話、生き残りを人間の至上の価値とする西欧人の話、その起源であるノアの方舟の話、生命のトリアージュが試されたタイタニック号の話、アンデス山中で遭難した人々の人肉を食べた話、共生とは言いながら人を殺すなとは言わない現代人の話、等など、コロナ禍であるが故にか、考えさせられるテーマが満載でした。
 非常に面白い視点だと思うのは、旧約聖書にあるノアの方舟の話です。未曾有の大洪水に見舞われるものの、ノアの家族だけが生き残るという設定と、そして、そこから生き残ったものが勝ち的な価値観が生まれること、リーダーというのも、言わば勝ち残りの戦略師とも言えるという見方ですが、人は極限状態にならないと、本当のところは分からない訳です。
 西欧(ユダヤ教、キリスト教的世界)は、人肉を食べることの善悪云々よりも、生き残ることを重視している人たちであるということで、生きるためには手段を選ばない人々であるとも言えます。ですから、怖いのです、私のような山折哲雄が言う、「心のDNA」を遺伝子として持っている人間にとっては。
 山折さんは、日本は1995年を境にして、変わったと言います。阪神淡路大震災とオウム真理教のサリン・テロ事件がその契機となっているということですが、日本人の心は、1)この世には永遠なるものはない、2)形あるものは必ず壊れる、3)生きている人間はやがて死ぬ、という無常観を皆一様に遺伝子的に持っているとしております。その無常観に影響を与えて続けているのが日本の自然という訳です。山折さんは、大きな災害が起きる度に、被害者の方々の顔に「笑み」のようなものが見られることの理由を長い間考えたようです。確かに、悲惨な自然災害にあっても、しかたがないとする諦観が見られる訳ですが、なぜ笑みが見られるのかというと、そこには、また別の意味合いがあるのでしょう。日本人はある意味での運命論者かもしれません。また、不運に当たってしまったというか。
 こうした自然との共生から生まれた無常観を認めないのが、自然を征服することで生き延びてきた民族から構成される所謂西欧文明(むしろ、ユダヤ的、そしてキリスト教的といえます。古代ギリシャや、かつてのローマ帝国の自然観は違う気がします)であります。
 イエスは、ユダヤ人でありながらも、キリスト教の始祖的な存在となっている訳ですが、キリスト教もある意味で、弱者として差別され、虐げられた人々の生き残りのための宗教であったと言えます。偉大な使徒たちによって、次第に権力を握り、国家宗教になるわけですが、国家の生き残りと宗教の生き残りには越えられないものがあり、政教分離が進み、今宗教はあくまでも個人の信仰の自由という権利となっていますが、個々の人間にとっては、救いであり、天国に行くためには善行を積まないと行けないわけで、それが生き残りのための戦略であったとも言えます。
 こういう極端な話は、真の宗教信者には不愉快、不敬罪、冒涜的なことかもしれませんが、西欧人には、窮余の際には、愛する人、隣人の人肉も食べても悪ではないと割り切る面があるのではないでしょうか。勿論、日本人も戦争時、人肉を食べたという話は数多く、事実は事実ですが、「負い目」を負ってその後の人生を生きるか、そうでないかの違いが日本人と西洋人の違いとしてはあるのではないかと思うのです。日本人は、宗教を信じている、あるいは信徒である人よりも、そうでない人が圧倒的でありますが、古事記、日本書紀には、自然災害等で相争いながら生き残りを賭けたような出来事の記述がないようですが、そこからも、日本人は生き延びる事自体、大したことではない、それ故に笑みが自然に出るのかもしれません。本当に、人類史の中では稀な人々だと思います。

 他方、ひろさちやさんの「「孤独」のすすめ」ですが、ひろさちやさんの語りは誤解を招きやすい表現が多く、舌禍事件を起こすことも多々あるようですが、私は彼の本はこれまで何冊か読んでおりますし、善意に解釈している一人ではあります。
 彼がこの本で言わんとしているのは、阿呆な生き方をしろということ、馬鹿な生き方はやめなさいということです。ひろさちやは、「馬鹿とは、問題状況を打開し、解決しようとあれこれ努力して、結局はそれに失敗する人で、失敗せずに成功した人が「賢い人」」で、「阿呆は、問題状況を打開し、解決しようなんてことは自分には不可能だと思って、問題をあるまま、そのまま楽しくやっていこうとする人です」と定義しています。 生命体として他の生命には代わってもらえないのは宿命ですし、そういう意味では、人生というのは、後者の愛別離苦(愛する者との別れの苦しみ)、怨憎会苦(怨み・憎 つまり、馬鹿な人は自分の事がわかっていない人であり、阿呆な人は自分のことがわかっている人という意味合いがあります。貧乏な状態からお金持ちになるという問題(課題かな)がある場合、馬鹿は一生懸命がんばるけど、貧乏のままの人が馬鹿で、阿呆は、最初から諦め、今ある状態をのんびり楽しむ、そう、毎日楽しむことの出来る人が阿呆ということです。ひろさちやはもう一つ、大事な事を語っています。それは、人生は大変なんだということで、楽なことは少ないけれども、基準点を低く抑えて見れば、案外やっていけるのだということを述べていることです。ゴルフで例えるとわかりやすいでしょう。
 パーやバーディーを取れるのがゴルフと思うよりも、せいぜいがボギー、平均的に言えば、ダボで、トリプルボギー、あるいは、ダブルスコアがよくあるのがゴルフだと思えば、トリプルボギーを叩いても、笑みが溢れる、ということです。一人でこの世に生まれ、そして一人であの世に行くのが人生でありますが、その一人で生きる人生の中で出逢った人との縁を大切に、明るく、阿呆らしく生きましょう、ということなんですね。
 尤も、知的な意味で得た情報もあります。例えば、仏教の基本の教理は、4つ諦があるということです。諦とは、明らかにすることを諦めるという意味ですが、苦諦(くたい、人生は苦であるといった明らめ)、集諦(じったい、原因に関する明らめ)、滅諦(めったい、どうするかの明らめ)、道諦(どうたい、実践についての明らめ)ですが、阿呆はあきらめることが出来るから幸せなんだということであります。ちなみに、四苦八苦という言葉にあるように、生苦、労苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の8つの苦があるわけですが、最初の4つは、生命体としての苦で、総ての人に平等にある苦です。生苦は、誕生するときの産道を通る時の苦ですが、記憶にはない苦です。後の4つは、人生で出会う苦で、個人差はあります。ひろさちやさんは、この前者の4つを「孤独の苦しみ」と言っておりますが、これは、ドイツの実在主義哲学者、ヤスパースが作った用語と言われる「限界状況」、極限状態とも言いますが、それに相当するということです。
 生命体として他の生命には代わってもらえないのは宿命ですし、そういう意味では、人生というのは、後者の愛別離苦(愛する者との別れの苦しみ)、怨憎会苦(怨み・憎むものとも会わなけれないけない苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(精神も肉体もすべてが苦である)の方がより人間的な苦しみのように思えますし、この苦しみをどうやり過ごすかがポイントになる訳です。
 なかなか阿呆になりきるのは簡単ではなさそうですが、西欧には、例えばフランスには、エスプリがあり、英国にはユーモアがあります。エスプリは、批判的精神の顕れであり、相手を批判的に攻撃し、結果自らの価値を高めようとする意識でもありますが、使い方を誤ると大変なことになりますが、他方、ユーモアは、先ず自分を卑下することで、相手をおだてる訳ですが、相手を傷つけることもなく、そして本人自身の心も和らがせてくれるものです。ひろさちやはそんなことは本では言ってはいませんが、モンターニュ的には、馬鹿な人はエスプリ的生き方で、阿呆な人はユーモア的な生き方をしている人でははないかと。
 ひろさちやは、夏目漱石の「行人」や、正岡子規の言葉、あるいは、26歳で夭折した金子みすずさんの詩を紹介しておりますが、こういう詩を書く人は勿論極楽に逝ったでしょう。
「さびしいとき私がさびしいときに、よその人は知らないの。私がさびしいときに、お友だちは笑うの。私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、仏さまはさびしいの」
 なお、キリスト教徒が天国に行けるかどうかは、本人や周りの人が決めるのは越権行為とか。あくまでもイエス・キリストが決めるようですし、仏教では地獄へは勝手に行けるけど、極楽浄土に行くかどうかは、これは阿弥陀如来(仏)のお招き次第ということであります(招待状がないと行けないのは、名門のゴルフ場にはメンバー同伴でないと行けないみたいな)。やはり、仏様は毎日拝んだ方がいいかもしれませんね。

 最後に一言。山折哲雄さんは、実家が岩手県の花巻の浄土真宗のお寺で、宮沢賢治の家とは150㍍の近所であったそうで、賢治とは家も近いこともあって、賢治や妹のことはよく知っていたようです。それ故にか、「17歳からの死生観」の宮沢賢治についての講演(「宮沢賢治から考える」)は、宗教学者を越えて、人間山折哲雄がにじみ出た感動的なものであり、梅原猛「地獄の思想」にある「修羅の世界を越えて」と同様に、近代日本の2大仏教者の一人である宮沢賢治をより知るためにも、これからも是非とも広く、読み継がれなければいけない、有り難い文章であると思います。
 賢治は、他の人には聞こえない音や見えないものが聞こえて、見えた人のようですね。つまり、ある種の超能力を持った人間であったが故に、なかなか社会からは認められず、それ故に、彼は黒衣の装束であった訳です。そして、最後は、「デクノボウになりたい」と言って、あの世に往った訳です。でも、行ったきりではなくて、いつかまたこの地に戻ってくる(往還)でしょう。姿を変えて。そういう人だと思います。

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