モンターニュの折々の言葉 379「貴方は人生を誰と一緒に歩きますか?」 [令和5年4月27日]
昨日は、先般ご案内した、「英国王室と日本人」(小学館)の筆者の一人でもあります、Sさんと門前仲町で昼食を共にしたのですが、普段は時間もないので、所謂レビューは書かないのですが、おめでたいことでもあるので、アマゾンにある書籍コーナーでレビューを掲載しました。Sさんも、またもうひとりの筆者、Yさんも大変喜んでくれたそうで、もしも、ご関心があれば、一度覗いてみてください。ただ、これって、本名で掲載されるのですね。幸い、日本には、同姓同名が少なくとも3名おりますから、まあ、なんとかなるでしょうが、気をつけないといけませんね。
そのお礼という訳でもないのでしょうが、Sさん、図書館のリサイクル本ですが、重たいのに、わざわざ持ってきてくれました。その本は、すべて上質な単行本で、大塚幸男 「流星の人 モーパッサン」、永藤武 「小林秀雄の宗教的魂」、中村真一郎「文学的散歩」、菅野昭正「永井荷風巡歴」。これに加えて、Yさんの「愛と欲望のフランス列伝」(集英社新書)を。フランスのことについて書かれた本では、愛と欲望に一切言及のない本は、私は信用しませんが、しかし、フランスの歴史そのものが愛と欲望かと言われると、そこは?マークがつきますが。さらっと眺めると、学者の真骨頂である、綿密に調べたであろう情報が満載。こういうことは、私熊にはできませんね。Yさんは、血液型はA型かな(笑い)。
おまちかねのゴールデンウィーク、頂いた本もありますし、お陰様で多分、退屈はしないでしょうが、私は東京マスターズ陸上の記録会が5月4日に予定されていて、1500㍍と3000㍍に出場登録済み。そのレースは、時差が1時間しかないという、ハードなスケジュールで、ベストタイムは無理としても、走るための調整が必要で、毎日、美酒のグルメ三昧とは参らないのであります。と、言いながら、今晩は、フランス語講座の受講生と、宴会が。
さて、昨日、アップルの創業者のスティーヴ・ジョブスSteve Jobsがスタンフォード大学の卒業式に述べた挨拶の中にある言葉、「夜には死ぬという前提で毎日を始める」をご紹介しましたら、文部科学省でかつて事務次官を務められたTさんから、とても素敵なお話を教えてもらいました。それは、ジョブスの言葉とは焦点は違うけれども、ガンジーの言葉、「Live today as if you die tomorrow, Learn today as if you live forever.」を以前留学生の集まりで引用して挨拶したら、東南アジアの留学生が、一斉に昌和し、感激したことがあったことを思い出したということでした。
実は、生憎、私はこのガンジーの言葉は知らなかったのですが、ガンジーの英語を日本語でどう訳すかなと思案し、as ifの後を如何に捉えるかなんだろうなと感じて、持っている辞書でas ifを調べたのです。as ifは「あたかも・・・のように、まるで・・・のように」という、実際は違うけれども、類似していることを想起させる表現で、それもあって、仮定法を使って表現する訳です。ところが、このガンジーの言葉は、現在形。現在形で書く場合はいかなる場合かと、手元にある英語の参考書を虱潰しに見たのですが、それほど詳細に書かれているものはなく、唯一私が大学卒業した時に買った(と思われる)松本安弘・松本アイリン「あなたの英語診断辞書」には、ちゃんと説明が出ていたのです。
ifの後が実際にそうである場合には、仮定法ではなく直説法で書くのですが、要するにそうなる可能性がある場合に、直説法で書くのが現代(口語の)英語ということでした。そう、可能性があるというのがポイントでした。
そこで、自分なりに訳してみたのです。文字通りに訳せば、「死ぬ気で今日を生きなさい、今日勉強することは永遠に生きることになる」ということですが。「今日が貴方の人生の最後の日と思って心して勉強しなさいね、今学ぶということは、貴方が永遠の命を得ることになりますからね」と。意訳ではありますが。ガンジーの言葉もそうですが、ジョッブスさんの言葉は、とても勇気づけられますね、可能性に賭けなさいと言っている訳ですから。
ちなみに、フランス語でもこのas if に相当する成句があって、それはcomme si。英語では、条件法(過去、または大過去)が使われる訳ですが、フランス語では、条件法ではなく、直説法(過去、または大過去)。あたかも・・・であるを、フランス語では過去形で表現するのですが、これが正しいとか、間違っているとは私の口からは言えません。フランス語は、そもそもが、聖書を間違いなく書き写すために出来た「神の言葉」でもありますし、文法も従って、今の人間が考えるようなAI的で、論理的で合理的なものではないようですから。
なお、ジョッブスさんの挨拶の言葉は、どことなく東洋思想というか、アジアの思想を表現しているのではないかと思うような、そして、養老孟司さんの人生観のようなものを感じますが、それは、やはりスタンフォード大学での卒業式の挨拶にある言葉「点と点の繋がりは予測できません。あとで振り返って、点の繋がりに気づくのです。今やっていることがどこかに繋がっていると信じてください。その点がどこかに繋がっていると信じていれば、他の人と違う道を歩いていても自信を持って歩き通せるからです。それが人生に違いをもたらします。」(大山くまお「名言力」)。
また、以前、私が英語の文法の参考書では、特別な一級品ではないかと思ったとしてご紹介した田中茂範さんの「表現英文法」の本に引用があった、
もあります。
ゴールデンウィーク前に、野暮な長話は無用でしょうから、まとめを。基本的に、私たちの人生は、大きく見れば、お釈迦様か、あるいは神の手の中で操られている時間と考えることもできます。そう考えたほうが気が楽です。自分を無にして、なるようになるのが案外一番幸せな生き方かもしれません。しかし、なるようになることを、政治家は求める訳ですし、科学者とか思想家はその訳を求める訳です。現実を解釈して、何かしらの回答を出したがる訳です。
先日、社会人学生としてこの春から大学で思想史を学んでいる友人が、大学で哲学を教えているN先生は、理系の先生とは違って、独創的な発想のようなものがないように思えたけれども、それが何故かがかわからないと言っておりました。まあ、当然といえば、当然でしょうね。日本の思想史で、日本的哲学を見出した思想家は、西田幾多郎か、あるいは、鈴木大拙くらいでしょう。でも、その哲学は西欧哲学とは違うし、世界で(西欧で)は哲学としては、認められていないでしょう。哲学は言語でしかないというような哲学者もいますが、私的に言えば、哲学が仮に存在意義を有するとしたら、それは、単なる知的な遊戯では勿論なく、また、不要不急のものでもなく、現実を理想に向かって解釈するのみならず、その現実を変える可能性のあるものでないといけないのではないかと。
しかし、日本は、本質的に、国家創設以来、何も変わっていない。西欧哲学を西欧人以上に学んできたのに。日本は、なるようにしかならない社会で、西欧のように、ああすればこうなる、こうすればああなる的な社会ではないのですから。
じゃあ、哲学の勉強や思想史の勉強を止めますか?そうではないですよね。ジョブスさんが言うように、本質的なものは、西欧と東洋には必ず同じものがあると思うし、どこかで繋がっているでしょうし、それを知ることはとても大切なことではないのかなあと。
「人は前に向かって(未来に向かって)歩いていると思って生きていますが、実は、もう一人の自分が後ろに向かって(過去に向かって)歩いているという、二人三脚の行脚」ではないのかなと。勿論、二人三脚ではなく、三人四脚でも結構とは思いますが。
どうも失礼しました。