『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (103) 漱石山房訪問
野尻湖畔の石田家の二階で苦心に苦心を重ねていたころ、小宮豊隆の推薦により、春陽堂から出ていた文芸誌『新小説』の明治45年8月号に中先生の作品「夢日記」が掲載されました。春陽堂は漱石先生と縁の深い出版社で、「草枕」が掲載されたのは『新小説』の明治39年9月号でした。小宮は早い時期から漱石先生の下に出入りしていた人で、帝大入学の際には漱石先生が保証人でしたから、漱石先生を経由して春陽堂にも顔がきいたのであろうと思います。日付が記入された86個の夢の記録の中には病床で書かれたものや兵営や衛戍病院で書かれたものがあり、明治44年の夏に野尻湖畔と琵琶島で書かれたものもあります。大阪の山田さんは「夢日記」のことを知っていて、安倍さん宛ての手紙の中で、「中の夢日記は誰れか評をした人があつたが、面白い評をした人でもあつたか」とたずねています。明治45年の手紙で、8月以降であることはまちがいありませんが、この一通に限ってなぜか日付が記入されていません。山田さんの書簡集に中先生が登場するのはこれが最後になりました。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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