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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (58) 「何うして君はそんなになつたのだらう」
第41書簡の宛先は安倍さんで、日付は7月7日。第42書簡も安倍さん宛で、7月8日付。安倍さんに宛てて二日続けて手紙を書きました。7月10日、今度は中先生に宛てて手紙を書きました。
第43書簡
明治38年7月10日
大阪より東京へ
中勘助へ
《一昨夕北川を送つて帰つたら君の手紙が来て居た。父が傍に居たもので中がかう書いて居るつて話した。嬉しさうであつた。そこへ北島から画ハガキが来て東京の友達の話が出た。弟は顔に腫物があつたのがうみが出て其為か昨日は熱が八度より上らなかつて喜んで居た。熱を早く取らないとクセになつていけないなんていつてゐた。昨日は或少尉の出征をおくつた。兵隊が可哀想であつた。青森から汽車で来てつかれて居るし夜の十一時頃ではあり見送りの人も少なし、同室の戦友とも話はつきたであらうし、夢の様に故郷を思つて居るだらうとあはれであつた。僕の乗つて行つた人力車の車夫が子供の時分に顔を知つて居た人だつた。濟まないと思つた。》
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1,565字
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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