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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (29) 漱石先生の授業を受ける

 学校がいやでたまらず放浪を繰り返す中先生はひとりで歩いていたのではなく、いつも山田さんがいっしょでした。いっしょに散歩をするというよりも、付添いのような恰好で、完全に奉仕的な態度でした。山田さんは、「なんでも中のいうとおりにしようと思う」とたびたび口にしていたとのことで、感謝しても感謝しきれない、むしろいくら詫びても詫びきれないというべきであろうと中先生は「瑠璃鳥」に書き留めています。中先生がこのエッセイを書いた時期ははっきりせず、昭和25年(1950年)ころと推定されるのみですが、それなら一高在学中のころから見て半世紀ののちの回想であることになります。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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