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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (12) 山田又吉との別れ

 東京朝日新聞に「銀の匙」が掲載されたときの状況は既述のとおりで、夏目漱石先生の推挽をえて東京朝日新聞に連載されることになって、いよいよ第1回目が掲載されたのは大正2年(1913年)4月8日のことでした。その後の経緯をたどると、4月30日のみが休載で、6月4日まで57回に及んで完結しました。これが今日の『銀の匙』の前篇の原型です。連載開始の前日の4月7日付の文芸欄には漱石の連載小説「行人」の第38回「歸つてから」が掲載されています。未完結ですが、「漱石氏病氣の爲め擱筆するの已むを得ざるに至り本日を以て打切となし他日單行本として刊行の砌是を完成せしむる事となしたり」という理由により中断され、翌8日から「銀の匙」の連載が始まることになりました。次に挙げるのは中先生が書いた「小説豫告」です。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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