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「先生の手紙と「銀の匙」の前後」によると、病気の中先生にとって明治42年の中家の状況は思わ…
次に引くのは「病床」の一節です。ある日の末子さんの姿が描かれています。 《姉が枕もとに坐…
一年志願兵に応じた中先生が入営したのは12月1日。入営先は近衛歩兵第四連隊で、第六中隊第…
野上豊一郎は明治16年9月14日に大分県臼杵に生れました。臼杵中学から明治35年に第一高等学…
中先生が漱石先生とであったのは明治36年の4月のことで、一高の1年生の第三学期に漱石先生の…
中先生が手賀沼のほとりで暮らすようになったのはいつからなのか、正確な日にちは不明ですが…
昭和12年5月10日付の小宮さん宛の手紙で、中先生は文化というものに言及し、「文化とかなんとかいふが、現代の文化なんぞ馬鹿々々しいほど低級なものぢやないか。人間といふ奴ぢぎに有頂天になるからいけない」などという所見を表明しました。末子さんはここに目を留めてこんなふうにひとこと口をはさみました。