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私の文章は妻が読んでから世に放つ 〜「言ってること」と「やってること」を統一するために〜

人が何かを書くとき、そこには必ず読んでもらう対象がいると思う。
日記とか独り言とか、自分の考えをまとめるためだとか、そんな場合でも、例えば未来の自分とか、まだ見ぬ恋人とか、無自覚であったにせよ、想定する読者がいるもんだと思う。

私の場合、大学生になってから哲学を学ぶようになり、自分の考えや経験をまとめる文章修行が始まった。「力のある文章」を書きたい、と願った。そして大学卒業後の北米留学中は日記をつけていて、それをノンフィクション作品としてまとめ、20代最後の年に出版した(後に再編集して『サンドタウン 〜地域の自立〜』として出版)。甲府に帰ってきてからも、まちづくりサロンの立ち上げ趣意書を書き、ワインツーリズム運動が始まってから冊子『br』を出版したときも文章を担当した。その後も朝日新聞山梨版のコラムを1年ほど担当したり、各種雑誌に寄稿したり、選挙のときも政策集を自ら執筆したり。そして今、このnoteである。
表現という分野において、私にはギターも弾けなければ、ラップもできない。映画もつくれなければ、役者にもなれない。料理もできなければ、ワインもつくれない。小学校の頃から国語が苦手だった私だけど、今ではこの「文章」だけが、私の武器になっている。

そんな私の「文章」だが、実は、世に出す前には必ず妻に読んでもらっている。
学生の頃からそうしている。実際にほぼ完成まで書き上げたnoteの文章でも、妻が読んだ感想・意見を聞いて、保留にしたことは何度もある。この文章も2回保留した後に出している。そのくらい、妻の感覚を当てにしている面がある。
この文章を読んでいるあなたは、どうだろうか? そのように当てにしている存在はいるだろうか? または、他者の目を全く通さずに書いた文章をそのまま世に出しているのだろうか? 

私が長年の間、そのように妻に読んでもらっている理由は、それがしっくり来るから、というのが本当のところだ。しかし、だからと言って、文章の内容に妻の同意を得ているわけではない。ただ、承知はしてもらっている。そしてその承知とは、私が家庭でも仕事でも実際に「やってること」と、文章として「言ってること」とが矛盾していない、ということの確認に他ならない。

私は世間に対して発する言葉と、家庭や仕事でやってる行動とを分けたくはない。
この「言ってること」と「やってること」の分裂は、「建前と本音の使い分け」の問題とも言えるだろう。世間ではどんなにかっこいいことを言っていても、人というのは自分の子どもとお金の前ではつい本音が出てしまう。つい使い分けたくなるものだ。ただ、こういうと自覚してやっているように聞こえるが、実際には建前と本音の区別すらなく、みなさん全く無自覚にこの「使い分け」をやっている。
例えば、自らの事業の社会的意義を唱える経営者、地域イベントや学習会を主催する人、学校の先生、選挙に出る人、つまり「世間に対してかっこいいことを言っている人」は、まず、自分の言葉と行動の使い分けを自覚すべきだ。私は自分の中の保身やズルさに正直になって、それでもギリギリのところで踏ん張っている。これは13年前に選挙に出たときに、自分の「建前と本音の使い分け」に絶望した経験と、その後の私を支えた「自分の身の回りの家庭や仕事でできていないことを、どうして社会で実現できる?」という決意が、そうさせている(このことは『私たちは想像以上に「生い立ち」に囚われている(後編)』で述べた)。

だから、事業を二人でやってきた私と妻とは、人の本音の部分、つまり自分の子どもたちとお金のことに毎日向き合っている夫婦なんで、生き方の全てを議論する日々を過ごしている。会社の経営を通して体感する現実、子育てを通じて見えてくる現実、studio pelletを運営しながら感じている現実、そうした現実と闘うために行動する。そしてその行動の中で考えたことを言葉にする。また、その言葉によってはっきりした自分の考え方や生き方を、自分自身に突きつけながら日々を生きる(行動する)。この繰り返しの人生。
地域の教育を考えるからには、子どもたちの義務教育には地域の公立校を選んだ。「地域で生きる覚悟」とか「地方の価値観」とか、地域で誇りを持って生きることの大切さを語るからには、ペレットストーブの販売エリアを地域の人々を信頼して山梨県内と長野県の一部に絞った。行政や大手への依存体質が地方の問題だと言うからには、補助金を求めず正々堂々と借金してstudio pelletを始めた。

ただ、この繰り返しは平坦なものではない。本当にこれが正しいのか、正しいかもしれないけどこれじゃやっていけない、他の選択もあるんじゃないか、と尻込みしたり、ぐずぐずしたり。思えば血の滲むような口論の日々だ。
私立校の話を聞く度に、明確で一貫した教育方針があって魅力的だった。だからこそ、多くの公立校の先生方の子どもたちは私立校に行くんですよね? わかる! では、公立校に行くうちの子どもはおれのエゴの犠牲か? いやいや、そもそも犠牲ってなんだ?
商売するには市場は大きければ大きい程いい。だからこそ、みんなこぞってECサイト始めるんですよね? だけど当社は「山梨の市場を信頼して、商売を県内に絞る。信頼でつながる商売をするんだ」。でもなぜか、その声が震える。この人口80万人を切った山梨で、いつまでそんなことが言えるんだ?
返さなくてもいいお金があるのなら、喉から手が出るほど欲しい。設備投資したって、新たに社員を入れたって、いつになったらその投資を回収できるんだ? だから賢い経営者は、鵜の目鷹の目で補助金情報を集めるんですよね? 実は当社だって、何度か補助金にチャレンジしたことがある。だけど、毎回なぜか落っこちた。今後、補助金使うときは、その理由も含めてこのnoteで報告します。

こうして今の私の生活は成り立っている。この生活の一環として書く文章ということになるが、たとえ妻との間で議論の最中のことで合意ができていなくても、まだ私の中に迷いがあることであっても、それでもそこに嘘のない正直な私の本音が表現されていれば、妻に納得してもらっているのだと思う。これがなければ、口先だけの言葉だ。心のない文章だ。その先の世間の皆さんへの理解には、到底結びつかないと思っている。
これから始まる総選挙。この「言ってること」と「やってること」が一致しているのか? それとも矛盾しているのか? これを見極めるのは非常に難しいことだけど、最も大切な投票の基準だと思う。


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