チーズ
裕子はチーズがキライです。
給食にチーズが出る日は、朝からゆううつでたまりません。チーズを食べなければいけない、その重圧で気が滅入ってしまいます。
チーズの、独特の酸っぱい匂いが気持ち悪くて嫌になります。
ねちょねちょと歯にこびり付く、粘土のような食感を思い出すだけで吐きそうになるのです。
裕子のクラスでは、給食は残さずに食べるというルールがありました。【好き嫌いをなくそう】という年間目標があるので、病気などの理由がない限り、配膳された給食を食べ終わるまで家に帰ることができませんでした。
持ち帰ることも、下校中に捨てる可能性があるという事で禁止されていました。
担任の吉住先生はとても厳しい先生だったので、下校時間になっても残されているクラスメイトがたまにいました。帰ってこない子供を心配して保護者が迎えに来たことも、何度かありました。
1ヶ月に1度の割合で出てくるチーズが、本当に嫌いで…チーズが出る日は学校を休みたくなりました。しかし、給食が食べられないから学校を休むというわけにはいきません。
両親も、好き嫌いをなくすいいチャンスだと言って裕子の悩みには耳を傾けてはくれず、どうする事もできませんでした。
6月の終わり、良く晴れていた日の事です。
裕子は朝から泣きたい気持ちでいっぱいでした。なぜなら、給食で一番嫌いな動物チーズが出る事を知っていたからです。
動物チーズは、裕子が一番嫌いなチーズです。
大きくて一口で食べ切れないし、アーモンドチーズやレーズンチーズと違ってチーズそのものだけの塊で、気持ちの悪い匂いと味がどうしてもイヤだったのです。友達が喜んで食べているのを見ても気分が悪くなるぐらい嫌いでした。
どうやって動物チーズを処分しよう…そればかり考えていたら、あっという間に給食の時間になってしまいました。
(どうしても食べたくない、でも食べなきゃいけない…。牛乳で流し込もうか、スプーンで細かく刻んでカレーに混ぜようか…わざと落として、素早く踏んでしまえば…。)
チーズのフィルムをめくって、憎たらしい塊を手にしたままラッキョウをスプーンですくった、その時です。
ガチャーン!!
「キャー!!」
「先生、かとうくんがぎゅうにゅうこぼしました!」
「アーン、あたしのバッグ!!」
「ご、ごめん…」
「怪我はしていませんか?割れた瓶には触らないで!そこを動かないように!掃除係、ほうきとちり取りを持ってきてください、お手伝い係は職員室に行って新聞紙をもらってきてください!」
「はい!」
「は、はい!!」
隣の班の男子が不注意で牛乳瓶を落として、教室内が騒がしくなりました。
先生は、ぞうきんとバケツを取りに廊下に行きました。
みんな、隣の班の方を見ています。
(今なら、誰も…私の事を、見ていない!)
裕子は、一瞬のチャンスだと思って…チーズを道具箱の中に入れました。
チーズを糊を伸ばすときに使ったティッシュに包み、工作で使った千代紙で挟んで…残りの給食を美味しく食べました。
食べなくて済んだその安心感で、裕子はすっかりチーズのことを忘れてしまいました。
夏休みが近づいてきたある日、道具箱を持って帰ることになりました。
「夏休み中に、道具箱の中を掃除しておくように」
裕子はその時、チーズを入れたことを思い出しました。
チーズを入れた日は、ちょうど図画工作の課題が終わったあとでした。算数の時間も定規を使わなかったし、マジックペンやハサミを使う授業もなかったのですっかり忘れてしまっていたのです。
ふたを開ける事すらせず、裕子は家に道具箱を持ち帰りました。
家に帰って、どきどきしながら道具箱のふたを開けると…、中は信じられないような状態になっていました。まさに、チーズのなれの果てといえるような、目を覆いたくなるような有り様でした。
ふさふさとした濃い緑色のカビ、明らかに毒の塊にしか見えないティッシュ、道具箱の中の三分の一を覆い尽くす、身体に悪そうな気持ちの悪い物体……。
こんなものとてもお母さんに見せられない、バレたら叱られる…。裕子は半泣きになりながら自分の部屋に行き、カビの塊を新聞紙で包んでゴミ箱に入れ、蓋の裏側をティッシュで拭い、ハサミや定規、道具箱本体をキッチンで石鹸を使って洗って、シミだらけになったお気に入りの千代紙を全部捨てました。コンパスの入ったキャラクターケース、さんすうの計算カードの一枚一枚をおしぼりで拭き…、気が付いたら日がどっぷりと暮れていました。
午後からお友達の家に遊びに行くつもりだったのに、行けませんでした。
シール付きのお菓子が入荷したから買いに行こうと思っていたのに、行けませんでした。
お母さんに怒られる前に、無事に道具箱の中を掃除するすることに成功したけれど、 裕子は疲れ切ってしまいました。
こんな事で、1日を無駄に過ごしてしまうなんて……。
裕子は、もう二度とチーズを道具箱に隠さないと心に誓いました。
こんなに苦労をするぐらいなら、一瞬で食べてしまった方が楽だということを学んだのです。
しかし、そのあと給食で動物チーズが出る事はありませんでした。
なぜ出なくなったのかはわかりません。
もしかしたら、裕子と同じようにチーズが嫌いな子がたくさんいて、残ってしまう事が多かったのかも知れません。
また、給食を残すことを学校が許すようにもなりました。給食を食べられずに家に帰れなくなった生徒が、登校拒否になってしまったからです。
小学六年の最後の給食の日、アーモンドチーズが出ました。
昔の嫌な記憶がよみがえりましたが、最後だしと思い、食べてみることにしました。
銀紙をはがして口に入れると、嫌いな味がしましたが、食べられないほどではないと思いました。
しかし、あのカビだらけの道具箱の中身を思い出してしまい、どうしても食べきる事ができませんでした。
裕子は、あの事件がなければ、もしかしたら…チーズ好きになれていたのかもしれない、と思いました。