食べられない
「ねぇ、なんで太ってないのにダイエットしてるの?」
お昼時、一人でお弁当箱を開けた私の手元を、同僚がのぞき込みながらのたまった。
「日頃の摂生が健康な体を作るって、知っているからだよ。」
もっともらしいことを言いながら、野菜だらけのお弁当に箸を伸ばす。
「ハイハイ、美意識の高い方は素敵ですね!」
「あたし達は常に貪欲だから!美味しいもの食べる!」
「ねー、誰かケーキ作って来たから食べない?」
「ぎゃー、もらうもらう!」
食堂内は、先輩が家で焼いてきたパウンドケーキに群がる社員達でごったがえしている。それをぼんやり見ながら、お弁当箱の中身をつつきつつ、ほっとしている、私。
……うちの課は、やけに料理自慢の、料理好きがたくさんいる。
毎日のように、やれクッキーを作ってきただの、やれいなり寿司を作ってきただの、やれ自慢のハンバーガーなんですよ食べてみてだの、やれ手作りの梅干し入りのおにぎりなの美味しすぎるから食べてみてだの…いろいろ持ち込まれては、みんなで仲良く食べているのである。
……この課に異動になった初日。いきなり手作りサンドイッチとプリンを差し出され、面食らった事を思い出す。
───すみません、私今日の夕方に胃カメラ飲むので食べられないんです。
とっさに嘘をつき、難を逃れた。
───ちょっと体調悪いので、食べ物の管理をしているんです。
食べ物を差し出されるたびに、理由をつけて断り続けて、はや三年。
──体型が崩れてからじゃ、遅いので。
最近は、美意識の高い美魔女を気取る事で難を逃れている。
美意識?
ははは、真夜中にカップ麺食べてますけど?
ふふふ、休みの日は朝から晩までアイスクリーム食べてますけど?
ほほほ、毎晩ビール飲みながらハンバーグ食べてますけど?
美意識なんか、皆無である。
……なにを隠そう、私は、人の手作りの食べ物が、食べられないのだ。
母親の料理と、自分の料理、個包装された食べ物だったらなんとか食べられるのだが、一般人のこしらえた食べ物が一切ダメだったりする。
私の母親は、厳格な料理人だった。
きっちり手を洗い、食材を洗い、調理器具を洗い、テーブルを拭き清め、落ちたものを使うなど、落ちたものを拾うなど、一切許さなかった。レシピをきっちり守り、手を抜く事を一切許さなかった。
それを、料理をするものは皆守っていると信じていた。
小学生の頃の、調理実習の時に、私は、衝撃を受けた。
落ちたものを洗わずに鍋の中に入れた、みわちゃん。
パンにまんべんなくバターを塗れと言われたのにほじったまま伸ばさず塊で置いた、ノンちゃん。
明らかに分量の違う調味料を大丈夫と言い張って押し通した、さとちゃん。
味見したお玉でみんなにカレーをついだ、橋本先生。
中学生の頃の、女子の呟きに、私は、さらに衝撃を受けた。
──一生懸命クッキーこねてね、焼いてから手洗ってないことに気づいて!
──一晩抱き締めてから渡した!
──一口かじって確認してから渡したんだ!
高校生の頃の、女子の呟きに、私は、更なる衝撃を受けた。
──賞味期限切れてるけど、ばれなきゃ大丈夫!
──ホールケーキの中身食べちゃったけど、ばれなきゃ大丈夫!
──なんか糸引いてたけど洗って煮たし、ばれなきゃ大丈夫!
仲の良かった男子生徒がバレンタインの翌週に救急搬送され、1ヶ月も入院することになってしまったのを間近で見届けたあの日から、私は他人の手作り料理を食べられなくなってしまったのだ。
責任感のない、一般人の作ったものなど、信用できない。
自分の目で、調理過程をきっちり見届けねば、信用できない。
すべて見届けても、イマイチ信用できない。
──僕、料理が趣味なんだ。
──お誕生日おめでとう、さあ、食べてみて!
──なんで、食べないの?
──僕達、もう赤の他人じゃないよね?
──僕、悲しいよ……。
大好きな彼の作ったものさえ、口にいれることができず、破局したのはもう……五年も前のことか。
ずいぶん、別れる時に揉めて……未だにその傷は、癒えていない。
「本社から出向してきました、水谷です。よろしくお願いします!」
「「「よろしくお願いいたします~!」」」
お盆休み明けに、第二課に新しい仲間が入ることになった。本社からやって来た、次期幹部候補と名高いイケメン社員である。
「ねね、水谷さんカッコよくない?」
「独身なんだって、狙うしか!」
「うちらの料理で胃袋つかむしか!」
やけに第二課の女性陣が活発化していく。
「これ私の得意料理なんです、食べてみて?」
「すみません、ちょっと昨日食べ過ぎちゃって。」
「これみんなが美味しかったって言ってくれたの、食べてみて?」
「ごめんなさい、僕乳製品アレルギーがあるので。」
「私の田舎は米所なの、一回食べたら他のおにぎりなんか不味くて食べられなくなるから!」
「僕血糖値上がっちゃって、糖質制限してるので。」
大人気の水谷さんのところに、毎日食べ物を持ち込む女性陣が殺到している。
誰かの差し入れを食べてしまったら、以降すべての差し入れを食べるはめになることを危惧していたのだろう。あの人のは食べたのに、私のは食べないんですかと詰め寄られるのを未然に防がねばならないのだろう。モテモテのイケメンは持ち込まれた食べ物を口にすることはなかった。
余ってしまった差し入れは、第二課の面々に食されることとなった。
気のせいか、ずいぶん…体型の丸くなった人たちが増えたような気もしないでもない。
「今度忘年会やるんだけど、駅前のイタリアンに決まったんで、よろしくね!」
「え…いつもみたいに、カラオケで持ち込みじゃないんですか?」
毎年、第二課の忘年会は近所のカラオケ店のパーティールームを貸し切って、おつまみとお酒を持ち込んでやることになっていた。
「今年は慰労金が出たからね、派手に使えというお達しがあったんだよ。」
マズいことになった。
私は、外食なら…一応食べることはできる。イメージの問題かもしれないが、お金を出して食べ物を買う行為に、ほんの少しだけ責任と徹底された衛生観念を感じる事ができて、口にする事が可能なのだ。ただ、明らかに不衛生な店はもちろん論外である。また、いわゆる…大皿料理が、一切ダメなのだ。誰かと一緒にひとつの皿をつつき合う、それができない。
……どうにかして、断りたい。
だが、断れないまま、忘年会の日を迎えてしまった。
「今年もお疲れ様でしたー!カーンパーイ!!」
「「「「カンパーイ!!」」」」
テーブルの上に並ぶ、大皿料理を目の前にして…目がくらむ。
どうにかして口に入れまいと、参加者たちへの給仕、ビール注ぎに回ってさりげなく何も食べずに振舞う……。
乾杯のビールは、瓶入りのノンアルコールビールで済ませたので、あとはみんなが酔っ払って前後不覚になるのをまって退場すれば……。
「えっ…、もしかして、桜?!」
「え……。」
オーナーシェフがあいさつに来たので、ついでにおしぼりでも貰おうと席を立って対面したら…まさかの、元カレだった。
「なに、僕の料理…食べてくれたの?食べられるようになったんだ?」
「え、ああ、うん…。」
どうしよう、ものすごく…嫌な、オーラが、漂う。
―――僕のこと信頼してないんだよね。
―――ぜんぶの器洗い直すってどういうこと?
―――僕を犯罪者扱いしてるんだろ?
―――お前なんか飢え死にすればいいんだよ!
―――どうせ食べないと思って全部捨てといたから!
―――あーあ、かわいそ!一生何も触れないね!
別れ話をした後、浄水器の中におかしな錠剤を混入されたことを思い出す。
別れる間際、常備菜をすべて捨てられたことを思い出す。
別れる前日、母から送ってもらった調味料や食材をすべてぶちまけられたことを思い出す。
別れた後、ドアノブに酸性洗剤を塗られたことを思い出す。
「……へえ、じゃあ、僕のとっておきの料理、差し入れさせてもらうよ。」
「え、いいよ、気にしないで。」
おしぼりの事なんか、一瞬で忘れた。
お手洗いに立った体で、その場を…離れる。
……ヤバイ、震えが、止まらない。
私は、元カレの犯罪行為に恐れをなして、引っ越しをしたのだ。
転職までして、携帯電話の番号も変えて。
もう、五年経っているけれど、もしかしたら、元カレは私のことをまだ恨んでいるかもしれない。
断ったけれど、差し入れを持ってきそうだ。
その差し入れに、何かが混入されているかもしれない。
……吐きそうだ。
お手洗いの中で、少しだけ嘔吐いて、ふらつきながら宴会会場に戻ろうとすると、水谷さんとすれ違った。
「あれ…なんかめちゃめちゃ顔色悪いですよ、大丈夫ですか?」
こちらを気遣う水谷さんも、少し顔色が悪いような気がする。
「水谷さんも顔色悪いですけど、大丈夫なんですか……。」
二人して、ハンカチを口元にあてて互いを気遣う。
そこに部長が現れた。
「なに、二人とも顔色悪いね…うっぷ、やっぱりイタリアンは…重すぎるんだよ。一緒に抜けないかい?俺もう駄目だ……。」
部長もずいぶん顔色が悪い。
「でも大丈夫ですかね?三人いなくなったらマズいんじゃ。」
「いいよ、会計は済んでるし、みんなもう相当べろんべろんだから。行こ、行こ。コーヒー飲みに行こ。」
「ご一緒します……。」
部長と水谷さん、そして私は、そろって少し遠くにあるカフェへと行くことになった。
「ふう…少し歩いたら楽になったよ、50超えるとチーズもニンニクもキツイねえ、もう俺一週間くらいなにも食わなくていいわ。」
「はは、確かにこってりしてます…もんね。」
私は、一口も食べていないので、正直おなかは空いているのだけれども。
……やばいなあ、美味しそうなクッキーの香りがするから、おなかなりそう。でも、食欲自体は、さっきのショックで消え失せているから…大丈夫、かな…?
ぐ、ぐぐーっ、きゅるるぅ~……!!
隣の席に座っている、水谷さんのおなかが、派手に鳴った。
「え?」
ぐ、ぐぐーっ、きゅるるぅ~……!!
私のおなかが、つられて派手に鳴ったのを、水谷さんは聞き逃さなかった。
「へっ?!」
「なんだ、君たちあんなこってりしたもの食べてまだ腹減ってんの?」
「「ち、違います!!」」
……思わぬところで、人というのは共通点があるものらしい。
なんと、水谷さんもまた、人の作った食べ物を食べることができない人間だった。
そういえば、一度も第二課の食べさせ合いに参加していなかったなあと、思い出す。いつもお昼時は外に出ているんだよね、この人……。
「僕、コンビニの袋に入ってるパンとかお弁当だったら大丈夫なんですけど、外食も苦手で。ビールも、乾杯しましたけど、口付けただけですぐゆすぎに行きました……。」
「私はノンアルの瓶を開けて一応飲みましたよ。でも、ほとんど飲んでないですね。」
「なんだ、君たちも不憫だなあ、来年はやっぱりカラオケだな、俺も歌うたいたいし!」
部長はのど自慢で有名なのだ。
今日のカラオケなしを一番悲しんでいた人物だったりする。
「まあ、俺もさ、今の第二課の差し入れの多さには困ってたんだよ。実は好き嫌い多くてね、断るのもなんだし、無理やり食べてて地味にストレスだったんだ。……ちょっとかんがえてみるわ。」
忘年会の次の日、ひと悶着あったことを知った。
「なんかオーナーがものすごいオードブル持ってきてさあ、サービスいい店だなって思ってたんだけど、奥の方でめっちゃ揉めてて!」
「あのオーナー、すごくナンパなの!会社の場所とかしつこく聞いてきて!」
「みんなラインとかメアド聞かれて大変だったんだよ?」
「ランチの訪問販売頼まれてさあ……。」
「でも200円で弁当が食べられるの、魅力的じゃない?」
「配達も引き取りも毎日伺いますって、至れり尽くせり!」
明らかに、身の危険を感じた。
……もう、この会社には、いられない。
部長のもとに、退職を伝えようと向かうと…、水谷さんがいた。
「昨日はお疲れさまでした…、なに、なんか顔色悪いね。…どうかしたんですか?」
「体調悪いなら帰りなさい、無理をしても良いことはないんだぞ!」
昨日、カフェで穏やかにコミュニケーションを取らせていただいて、少しだけ、気を許してしまったらしい。いつもなら、ポーカーフェイスで、乗り切る事ができる、はずなのに。
……温かい言葉を、聞いて…、張り詰めていた心が。
「っ……、わ、わたし……。」
「え、何、どうかしたんですか?!」
「ちょ……、会議室行こう!」
昨日に引き続き、事情を、洗いざらい話す事になった。
「……これは由々しき事態だ。杉江くんはしばらくリモートに切り替えて……。」
「…念のため、引っ越そうと思います。とても仕事できそうにありません、退職させてください……。」
ああ、また、仕事探しから。
ああ、また、知らない場所に、一人で。
「……杉江さん、本社に行きませんか?」
「そうだな、杉江くんなら安心だ。」
「……え、なんですか、それは…。」
……トントン拍子って、あるんだなあと思った。
水谷さんは、今年いっぱいで本社に戻る事が決まっていた。しかし、思いの外作業が進まず、こちらから本社へと、一人向かわせようという話になっていたらしい。
毎日仕事だけに邁進していた姿勢が思わぬところで認められ、私の異動が決まった。
新天地で、新生活を始めた。
知らない場所ではあるけれど、一人、知り合いがいる。
…ずいぶん、心強かった。
たった一人の知り合いは、私と同じ悩みを持つ仲間でもあった。
外食を断る時、お互いに協力しあうようになった。
知らない場所に慣れてきた頃には、ずいぶん知り合いが増えていた。
住み慣れた場所になった頃、たった一人の知り合いだった人が、唯一無二の大切な人になった。
共に暮らす場所を得た頃には。
私は大切な人が作ったものを食べるようになり。
大切な人も、私の作ったものを食べるようになり。
いつしか、子どもの作ったものを食べるようになり。
「パパがまずいって言ったの……。」
「どれどれ、じゃあばあちゃんがアドバイスをしてあげようね。」
私は、いま。
孫が初めて作ったホットケーキを口に入れて……。
「モグモグ、もう一度焼いたら、美味しくなるよ!クリームものせようかね。パパ…あとじいちゃんも呼んでおいで!あの人は甘いものに目がないからねえ」
「うん!」
……ごっくん!
ふふ、お砂糖多めでだから、飲み物があった方がよさそうだね。
美味しい紅茶をいれるために、キッチンへと、向かったのだった。
寄り添ってくれる人がいれば、トラウマに打ち勝つことも事もできるのだ…。