明日、わたしはおばあちゃんにお別れをしてくる
2017年、祖母が亡くなった。
蜜柑の皮を剥くのが上手で、炬燵の定位置に座ってみんなを眺めていた。毎年正月に行くと、「お兄ちゃんと半分こだよ」とお年玉の一万円札をそのまま渡してくれた。晩年の祖母は長く入院生活を送っていて、さいごに会った祖母からはたくさんの管がはえていた。それでも祖母は、笑っていた。
だいすきなおばあちゃん。
わたしはまだ、おばあちゃんへのお別れができていない。
おばあちゃんのいない炬燵を、見たくなかった
祖母の家にある掘り炬燵が好きだった。おばあちゃんはいつも奥のほうに座っていて、傍らには蜜柑とお手玉、かたい枕が置いてあった。
祖母が亡くなったと聞いた時、真っ先に思い浮かんだのがあの炬燵だった。奥のほうに座って蜜柑を食べる祖母の姿を脳裏に描けた時、よく分からないけどなんだか安心できたのを覚えている。
あの時、おばあちゃんは、まだわたしの心の中で生きていた。
だからこそ、認めたくなかった。
祖母のいない炬燵を見たくなくて、祖母のスクーターが無い庭が見たくなくて、わたしは祖母の家にまったく寄り付かなくなった。
親の里帰りに付いていかなくなっただけでなく、祖母の告別式にも行かなかった。
未だにわたしは、お線香をあげてすらいない。
わたしよりいくつも年下のいとこたちは、きちんと挨拶をしたというのに。
明日、2年越しに、おばあちゃんに会いに行ってきます
明日、わたしは祖母に会いに行ってきます。親戚の集まりがあるので、新年の挨拶がてら線香をあげてくる予定です。
最初、父に「明日、おばあちゃん家行ってくるけど」と言われた時は、「行かない」と答えてしまいました。
正直今でも少し臆病な気持ちがあります。
でも、やっぱり行くことにしました。
毎年、新年の挨拶に伺うたびに、おばあちゃんはとても嬉しそうな顔をしていたんだから。
次はわたしが、蜜柑を剥いてあげるんだから。
***
思えば昔から、嫌なことからは目をそらしてばかりいました。
愛犬が亡くなった時わたしは家に居ることを避けた。
後輩がしんどい思いをしていた時、わたしは傍にいられなかった。
友達と喧嘩をした時、わたしは向き合おうとはしなかった。
特に「別れ方」がヘタで、恋愛でも友情でも仕事でも、円満な別れはほとんどありません。
わだかまりが残ったり、自然消滅だったり、片方がすごく執着してしまったり、ひどく突き放してしまったり。
ずっとずっと、逃げていた。淋しさや孤独や悲しみから。
これ以上背負いたくなんてないよう、って駄々をこねていた。わたしがほっぽりだしたその荷物は、別の誰かが持ってくれているのに。
まずはここから、向き合ってきます。
待っててね、おばあちゃん。おいしい蜜柑、一緒に食べようね。
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