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チャーリーゴードンに花束を。

今しがた、小説「アルジャーノンに花束を」を読み終わった。
高校の国語の授業で一部を扱った記憶があったが、自分は賢いネズミの話だと思い違えていた(笑)
読み進める途中でチャーリィ・ゴードンという名前が一時期クラスで連呼されていたことを急に思い出した。

全編を通しての所感をじっくり書きたいところだが、相当体力のいる作業だしおそらく世の中にいい感想文がたくさんあると思うので、ひとまず自分の胸に引っかかったところを羅列的に書いてみることにした。

・一番衝撃的だったのは、学会で博士たちがアルジャーノンとチャーリーを発表する場面だった。
そこまで私は、意外とアルジャーノンについての描写が少ないんだなと感じていた。チャーリーの前段階の実験台としての役割であり、チャーリーと重ね合わせられる存在なのだろうなとくらいの認識であった。ところが博士が「知能の極点においてアルジャーノンの行動が変則的になったというのである」ことを明かした場面で、この先の展開がまさに雲を散らすように見えたのだった。この先チャーリーにも変化が訪れ実験台でい続けることの虚しさから自暴自棄になり、やがて退行していくのだと。そしてその辛さは彼ら2人でしか共有できないものであるということが重く胸を貫いた。アルジャーノンはチャーリーのたった1人の理解者であり、彼亡き後はチャーリーは一人ぼっちになってしまうことも。
その後チャーリーはアルジャーノンを檻から逃し、逃避行に浸る。しかし結局アルジャーノンが迷路から出られることなく生涯を終えるように、チャーリーもまたアパートを借り、教授から逃れ奔放な性生活と研究に入り浸っても彼の抱える運命からは逃れることはできないのであった。高い知能レベルにあったチャーリーはおそらくこのタイミングで自らの辿る運命について本能的に全てを理解したからせめてもの抗いとして直感的にアルジャーノンを逃したのだろう。その彼の失望を体験したような気がした。

・この小説を読んで一番よかったことは、どれだけ学術的な命題を解決できたとしても好きな人との関係をどうすればいいか、幼い頃の家族関係のトラウマとどう向き合えばいいか、というような単純な問いは何も解決しないということを肯定されたような気分になれたことだ。学者が豆粒に思えるほどの知能と思考力を手に入れたチャーリーも、愛する人への気持ちの伝え方や交わり方がうまくいかないこと、そして障害者であった自分を忌避した母への原始的な恐怖に苛まれ続けた。チャーリーはそれを、白痴であった頃の自分が監視しているせいだとか、精神の方は発達が追いついていないのだ、とか理由づけるのだが、自分はそうではないと思った。チャーリーはたくさん本を読み、過去の経験も再解釈し、精神的にも我々と同じように成長したのだ。彼に問題があるのではなく、そのような問題には答えがないので誰しも悩み続けるしかないのだ。YouTubeには「人を思うように操る方法」とか「雑念を振り払う瞑想」とか動画が溢れかえっているのでついコントロールしなければならないことのように思ってしまうが、そのような問いには一生悩まされ続けるもので、それでいいのだよ、ということを裏側から教えてもらったような気がして、ホッとした。
こちらは余談になるが、私の母は、私を素晴らしい子にしようと思い詰めるあまり精神を病んでしまった。対して父はそのような育て方は私に良くないから私の生きたいように育てようと主張した。その時父は「彼が遊びたいというなら今は好きなことをさせてやればいい。彼が勉強したいと思ったなら勉強をさせればいい、道を踏み外したら我々が介入しよう」と粘り強く主張したのだが、母は「あなたはこの子に勉強をさせないようにしている。息子が自分より賢くなるのが怖いんだわ。邪魔をしないで!」と話を飛躍させ、捻じ曲げて叫んだ。そして父は段々会話が億劫になり時に声を荒げての喧嘩になった。僕は怖くて母親に同意を続け、母の機嫌を取るために父親の悪口を言い続けた。そして時たま風呂場で号泣し父に慰められていた。そんな記憶とチャーリーの幼少期はよくリンクした。

・「そうした刹那、私の膚は薄く張り詰め、そしてつながりの一部になりたいという耐え難い渇望が、私を夜の暗い街の片隅や、袋小路へ彷徨い出させる」
これはチャーリーが研究の傍ら夜な夜な映画館に足を運ぶのだが、実は映画が観たいのではなく群衆の一部になって孤独を和らげたいと気付く場面だ。めっちゃわかる。めっちゃわかるよ。配信サービス加入してるのにめっちゃ同じ気分でグランドシネマサンシャイン池袋に通ってるよ。映画を見るのってその体験を人と共有したいのも大きな理由だよね。

・「金や物を与える人間は大勢いますが、時間と愛情を与える人間は数少ないのです。そういう意味ですよ。」
自分を含め、この本の読者の多くが障害を揶揄したり、悪意を持って攻撃するような人ではないだろう。そして何かできることはないか、せめてよく知りたいと募金をしたり、本やドキュメンタリーで勉強したりするかもしれない。しかし、実際に施設で働くことはそれとは格の違う苦しみであり、本当に必要とされていることであり、我々善良な読者が目を背けているところなのだ。知的障害者の介護施設に就職した友人がいるのだが、一年足らずで適応障害になり退職した。自分にできただろうか。重度の障害者に対してどのように向き合えばいいのだろうか。慎重を期すべき話題であるが、一度誰かと話をしてみたい。

・チャーリーが博士たちに抗議するセリフの中に「障がい者にもみんなのように賢くなりたいという気持ちがぼんやりとあるんだ」というようものがあった。(原文を見つけたら差し替える)
私は個人的に、そう決めつけるのは良くないし、一般化しかねないような表現は良くないのではないか?と引っかかった。それはすなわち彼らはかわいそうな存在であり、周りのレベルまで引き上げてあげなければ、という考えに結びつくからである(それはこの物語が疑問を呈すテーマではなかっただろうか)。
しかし、翻訳者の後書きを読んで納得させられた。作者であるダニエル・キイス氏は知的障害児の教室で実際に教えていた経験があり、教え子のある少年が授業の後やってきて「先生、僕利口になりたい。勉強して頭が良くなったら、普通のクラスに行けますか」と言ったのだそうだ。そしてそれがこの物語を世に送り出す大きなステップとなったことが記されていた。またキイス氏にはパン職人の見習いやウエイターの経験もあり、ミスをして罵倒されたこともあるそうで、チャーリーのストーリーにもそのときのことが反映されているそうだ。
そう、この物語は極めて私的な経験に基づく物語であり、初めから一般化などしていないのだった。チャーリーはキイス自身の一部であり、読者のあなたの一部でもあり、私の一部でもあるのだ。

私の愛する映画「ガーディアンズオブザギャラクシー」の監督を務めたジェームズガン氏の言葉に「最もクリエイティブなことは、最もプライベートなことである」という一節がある。私たちとはかけ離れた人生を送ったチャーリーの物語がこうも心を打つのは、キイス氏の人生経験に深く基づいた物語であるからであることを確信したのだった。彼は寡作であったそうだが、その方が納得がいく。

以上で私の所感を終わりにする。もっと胸を打つ感想文はネットの海に転がっているだろうから、このあとはそれを探してみることにする。

自分は昔本の虫であったが、スマホ中毒になってから本が読めなくなった。大人になってから何度も本を買ってトライしたが、最後まで集中力が続かず、途中でやめた本が山積みになっている。読み通したものもあるが、最後まで読んでこれ?という感想を抱いてしまった。ところが「アルジャーノンに花束を」は序盤の平仮名の箇所こそ心が折れそうになったものの話が進むにつれ夢中になり、いつもは昼寝に費やす職場の昼休みにも読み、退勤後もマックに立ち寄り、時間を忘れて没入した。小学校の頃下校しながらずっと本を読んでいた自分が帰ってきたような気がして嬉しかった。自分の好みの殻に閉じこもり同じもの(マーベル映画め・・・)ばかり見るようになった私に漫画やアニメ、映画、小説とオススメを教えてくれ、殻から引き摺り出してくれている(そんな意図はないだろうが)友人に感謝の花束を贈りたい。ありがとね。






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