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自分はなんで怒るのだろうか?=生き方に気付くため

最近「なんで自分は腹がたつことがあるんだろう?」という問いが自分の中でグルグルしていたので、あるきっかけをもとにじっくり考えてみた。

荒い運転をする車に怒りが湧き起こる

バイクを運転していると、後からギリギリのところを加速しながら車が通り過ぎていった。ほんとうに当たりそうで恐かった。
すぐさま怒りが沸き起こった。
「なんだよ!危ないな!!」
「くっそ~、追いかけて行ってどんな奴か確かめてやろう・・・」
なんて思いかけて。
「なんでこんなことで腹が立つんだろう?」
と、最近「歳のせい?」なんて考えそうになっていた疑問が再びわいてきた。

本当に「あいつのせい」なのか


あいつが悪い、あいつのせい、とは言うものの本当にそうだろうか?
確かに危なかった。
でも、こういうときの怖さは人によって度合いが違う。
そしてその度合いによって怒りの度合いも違う。
と言う事は、恐怖や怒りの感情は体験とイコールではない。

これが例えば落石だったらどうだろう?
少し怒りの度合いが薄れる人が多いんじゃないだろうか。
怒りの度合いは相手に意思があるかどうかに左右されている。
意図的に攻撃されると自分を守りたいと言う気持ちが働く。

バイクをギリギリに通り過ぎた車の場合。
悪意があったかどうかは自分にはわからない、わかりようがない。
「きっとあいつはこう思ってたんだ!」
と言う自分の中の相手像によって怒りの度合いが変わってくる。
自分の人間に対する認識によって、何かが起こったときの心的態度が決定される。

何も考えずに横を通り過ぎたのかもしれない。
ちょっとビビらせてやろうと思いながら通り過ぎたのかもしれない。
ただ急いでいただけなのかもしれない。
少し寄りすぎてしまったなと、申し訳ない気持ちで通り過ぎたのかもしれない。
でもわかりようがない。

と言う事は、この時の心的態度の決定権は100%自分にある
きっと同じようなことが無数にある。

選択のしかた=生き方


「自分にとって気分の良い選択をしよう」と決めている人間と
「悪意がある奴ばっかりだ」と思っている人間と
「きっといい人ばかりだ」と思っている人間と
それぞれに感情が大きく違ってくる。
日々の生活に影響をあたえる。

自分の感情が揺さぶられるような体験が起こったときに、どういう選択をするかと言うのは、どういう生き方をするのか?ということとイコールだと思う。

こう考えると、感情が揺さぶられる体験というのは自分の生き方に気付いて、その方向性を考える機会だととらえることができる。

どれだけそのことに気付けるのだろうか?
意識を向けておくことにしよう。

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