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【読書メモ】能動態でも受動態でもない中動態という考え方:『中動態の世界 意志と責任の考古学』(國分功一郎著)

主体性、能動性、意志といった言葉は望ましいものと認識されているように思います。ただ、「主体的に生きよう!」「能動的に行動することが大事!」「意志を持とう!」と強調されすぎると息苦しくないでしょうか。本書では、能動でも受動でもない中動という概念が以前は存在したという言語学の知見に基づいて中動態という認識を提示しています。私自身は意志とか能動性を重視しすぎてしまうタイプなので、中動態という新しい世の中の見方を得られたすばらしい読書体験でした。

中動とは何か

本書では私たちが用いてきた言語の歴史を紐解きながら解説されています。現代を生きる私たちには、能動態の反対は受動態である、ということが当たり前なのではないでしょうか。英語を学ぶと最初の方に習うので言葉としても馴染みがあると思います。

しかし、言語の起源からみていくと、以前は能動態の反対は受動態と捉えるのは後から出てきたもので、元々は能動態の反対は中動態であり中動態の一部に受動態が含まれていた、という関係性だったと本書は指摘しています。関係性が異なるということは意味合いも異なるわけで、以下のように能動vs.受動と能動vs.中動の意味合いを整理しています。

 能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。われわれは中動態に注目することで、この対立の相対化を試みている。かつて存在した能動態と中動態の対立は、「する」と「される」の対立とは異なった位相にあるからだ。
 そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前傾化しない。

97頁

能動態と受動態、すなわち「する」と「される」の対立構造は意志の有無によって成り立つのに対して、能動態と中動態はそうではないというわけですね。そうではなくて、能動と中動の対立構造は「主語が過程の外にあるか内にあるか」(88頁)の違いになります。

意志の有無を前提としない世の中の見方

では、意志の有無を前提とせず、私たちは世界をどのようにみることができるのでしょうか。

 意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ーー過去からの帰結であり、また、無数の要素の相互作用のもとにあるーーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。むしろ意志の概念を斥けることによってこそ、意識の役割を正当に評価することができる。

135頁

意志が前傾化しないと、主体と客体という関係性ではなく、相互作用に焦点が当たるのかもしれません。他者と相互作用しながら意識が構築的に顕在化するというあり方は、意志の重要性が増大化しすぎて息苦しい現代にあってホッとする捉え方と私には考えられます。

中動態の世界を生きる

では、中動態のレンズで世の中を生きるとはどういうことなのでしょうか。

 完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。

293-294頁

私たちは、完全に自由になることもできないし、完全に他者から強制されるということもない、と著者はしています。こうした状態において、相互作用のプロセスに焦点を当てる中動態というものの見方を、私たちは時に大事にした方が良いのかもしれません。


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