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【読書メモ】『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹著)

本書を読むのは少なくとも三度目です。三たび読んでも新鮮で面白い!と思うのは、著者の文体が好きであるからで、また走ることが好きだからでしょう。どちらも好きでないという方は、この後は読まない方が良いのかもしれません。

読む行為と、読まない行為とは、人々に平等に開かれた選択肢なんだ。それは、お気に入りのバーを訪れて、ソルティ・ドッグを頼むべきか、ピニャ・コラーダにするべきかを決断することと同じだ。しかし、そんなことを土曜の午前七時に考える必然性なんてどこにもないんだよ、やれやれ。

偉大な作家に共感すること

「きれいな日本語」なるものがあるとした場合、私が主観的にそれを感じる小説家が何人かいます。既に他界している方で言えば夏目漱石三島由紀夫、現在でも活躍されている方で言えば村上春樹さん平野啓一郎さんです。

それに引き換え、私が書く日本語は、自分で読むといつもうんざりし、論文を書く場合は何度となく推敲を重ねることでなんとかカタチにしています。noteはほぼ推敲しないので自分のイヤな感じがすごく出ていて、後で読むとげんなりします(と言いながら推敲しないのですが)。

そのため、著者が述べることに「共感します!」と軽々しく言えないものの、以下の箇所は私のことを書いているのでは!?という錯覚に陥るくらい共感しかありません。

僕は頭の中で純粋な理論や理屈を組み立てて生きていくタイプではない。思弁を燃料にして前に進んでいくタイプの人間でもない。それよりは身体に現実的な負荷を与え、筋肉にうめき声を(ある場合には悲鳴を)上げさせることによって、理解度の目盛りを具体的に高めていって、ようやく「腑に落ちる」タイプである。言うまでもなく、そういう段階をひとつひとつ踏んでいると、ものごとの結論が出るまでに時間がかかる。手間もかかる。ときには時間がかかりすぎて、やっと腑に落ちたときにはもう手遅れだったという場合も出てくる。でも仕方ない。それがそもそもの僕という人間なのだから。
村上春樹. 走ることについて語るときに僕の語ること (Japanese Edition) (p.29). Kindle 版.


短距離走は速くなく、一年程度で対応できる受験勉強には苦労ばかりしてきましたが、長距離走や研究は(得意かどうかはさておき)好きな人間です。短距離走や受験は他者との比較になりがちなのが好きになれない要素なのですが、長距離走や研究は自分でゴールを設定して少しずつ工夫しながら自分のペースで継続できるので性分に合っているのだと思います。あれほど世界観のある物語をきれいな文体で描き出せる著者と同じとは到底思えませんが、共感できるのはうれしいものです。

プロセスにベストを尽くすことで結果が高まる

結果ありきで逆算的にプロセスをこなすという発想をされる方がいます。もちろん、圧倒的な天賦の才があって、プロセスをすっ飛ばして圧倒的な結果を出せる方がいることはよく理解しています。

しかし、以下の箇所を読むと、自分のためにプロセスでベストを尽くすことを継続することの心地よさが伝わってくるような気がします。

走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、達成規準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって、自分を高めていった。少なくとも高めようと志し、そのために日々努めていた。僕はもちろんたいしたランナーではない。走り手としてはきわめて平凡な──むしろ凡庸というべきだろう──レベルだ。しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。
村上春樹. 走ることについて語るときに僕の語ること (Japanese Edition) (p.17). Kindle 版.


プロセスに焦点を当てるということは、他者との比較ではなく過去の自分自身を乗り越えることを意味します。学校の友人や、社会人の知人で、やたらと成績や給与の比較を好む方がいましたが、私はどうも苦手でした。比較するべき相手は過去の自分自身である、と捉える私は、長距離ランナーであり、長いスパンでの取り組みを好むタイプということなのかもしれません。

ランナーとは生まれつきのもの!?

ここまで考えてくると、心理学的な言い方をすれば、ランナーというものは特性論で捉えられるのかもしれません(笑)。著者も以下のように書いています。

だって「ランナーになってくれませんか」と誰かに頼まれて、道路を走り始めたわけではないのだ。誰かに「小説家になってください」と頼まれて、小説を書き始めたわけではないのと同じように。ある日突然、僕は好きで小説を書き始めた。そしてある日突然、好きで道路を走り始めた。何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。
村上春樹. 走ることについて語るときに僕の語ること (Japanese Edition) (pp.168-169). Kindle 版.


「何のために走るのですか?」「何のために研究するの?」と尋ねられるたびに、私はマゴマゴします。「走りたいから走る」のであり、「研究したいから研究する」以外に答えられず、質問者のがっかりする顔を見慣れているからです。

私は何でも継続できる人間では決してありません。小学生の頃に父親からは「お前は三日坊主だ」と言われ、学部時代の恩師からは結婚式二次会のビデオメッセージで「一見してまじめ風(であり優等生的なまじめ人間ではない)」と言われた人間です。

好きかもしれないものにトライして、結果的に好きなものが残っているということなのだと思います。個人的には、走ることは主に身体的な行為であり、研究は主に思考的な行為なので、バランスが良いのでしょう。(仕事はどこへ行ったという指摘を受けそうですが(笑)、まじめに言えば仕事も好きな領域を深掘りすることでマーケットから一定の評価を得られるようにキャリアを構築するよう努力していると言えそうです)

ランニングの記録をつける!

走ることのプロセスにベストを尽くす上で、参考になったことがあります。それは著者がランニングの日誌をつけていることです。

僕は日記を書き続けられない性格なのだが、ランニングの日誌だけはわりに丁寧につけている
村上春樹. 走ることについて語るときに僕の語ること (Japanese Edition) (p.60). Kindle 版.


これはちょっと面白そうだなと思いました。走る日ごとに書くのは億劫なので諦めるとして、週ごとに書いてみようと思います。まずはトライアルとして4月の長野マラソンまでの約三ヶ月間書いてみます。そうすれば、後で調整過程を振り返る上で役に立つかもという魂胆です。4時間は切れるでしょうから、サブフォーを目指す奇特な方にとっては一つの参考情報になるかもしれません。


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