東洋思想入門 #1 ドラッカーと論語 2/4
今回は『ドラッカーと論語』の中から「学習回路を開く」という考え方を扱います。本書のハイライトであると思っているくらい感銘を受けた考え方であり、セッションでも最も力が入って説明した箇所です。
「学習」という言葉を「学ぶ」と「習う」という二つに分けて安富先生は解説されています。「学ぶ」がインプットのイメージであるのに対して、「習う」はそれを自分のものとして取り込むという意味合いでしょうか。
時系列で捉えれば、学ぶが短期間でもできるものである一方で、習うは長期間にわたる試行錯誤の結果として実現できるもののようです。しかし、だからといって習うことは苦しいものではありません。むしろ、喜びであると安富先生は指摘します。
これは、先日引退を表明したイチロー選手のような求道者を想起すれば良いのではないでしょうか。もちろん習う過程には苦しいものが多く、ほとんどの時間が苦しいのかもしれません。しかし、新しく自分を創り変えていくことが時にたのしさを与えるものなのではないでしょうか。
なぜたのしいのか。それは学びの主体を自分自身に取り戻すことができるからである、と安富先生は『超訳論語』でも解説されています。つまり、学ぶということのイメージは日本の初等・中等教育のインプット型授業であり、先生が教える唯一無二の回答をただ暗記すれば良いというものです。これでは、学びの主体はあくまで先生であり、それを自分自身に落とし込むことだけが学生には求められます。
こうした他律的な学びを、自律的な学びへと転換させることが「習う」ということなのでしょう。自分自身でテーマを設け、多様なものをインプットして自分自身で考える。仮説検証を繰り返しながら自分なりのアイディアを紡ぎ出し実践してみる。この一連のプロセスを経て習うたのしさが現れてくるというイメージでしょうか。
では、なぜ既存の知識をインプットするだけではダメなのでしょうか。
端的に言えば変化の激しい時代においては、既存の知識の正当性・妥当性も変化するからです。孔子が生きた時代と、現代を生きる私たちの時代とは、どこか近いものがあるのではないでしょうか。だからこそ、現代に至るまで論語は読み継がれてきたのでしょう。
そうした時代において私たちに求められる態度が学習回路を開くことです。つまり、自分自身の可能性を内側に閉じることなく、外に対して自分自身を開き、変化する自分自身を認めるということです。
外に対して自身を開くためには、身の回りに起こることをセンスすることが必要でしょう。その上で、そうした事象に対して価値判断を下すのではなく、ありのままのこととして受け止めること。その上で、自分自身にとって成長の機会として見出そうとすること。これが自分自身でフィードバック・ループを回して習うことの真髄であると言えそうです。
このように捉えれば、キャリア理論でいうところのオープンマインドやアンラーニングという考え方と近いようにも思えます。キャリア理論を学ばせていただいた私の師匠は老荘が好みだとよくおっしゃっていたのですが、学習回路を開くという考え方は、動態的なキャリア理論との親和性があると私は考えています。
みなさんもぜひこちらの書籍を読んでいただき、考えてみていただきたいなと思います。批判的感想をお待ちいたします。
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