ドラッカーと論語

東洋思想入門 #1 ドラッカーと論語 3/4

前回は「学習回路を開く」という考え方について述べました。自分自身を限定的・固定的に捉えるのではなく、自らの多様な可能性を信じてオープンな態度で自身の変容をたのしむというあり方を学びました。

こうした有り様を体現している状態が仁である、と論語では語られています。

開かれた態度による学びとしての仁の状態を継続できる人物が君子です。君子は器ならずとして、器=専門家=一つのことのみに習熟するのではなく、多様な経験に基づく多様な能力を持つことの重要性を孔子は説きました。

オープンな学びとしての仁を維持・継続できる君子の生き方は、春秋戦国時代だけではなく現代にも通じるものではないでしょうか。変化する環境に対応するだけではなく、自分自身の多様な可能性をセンスして時として自ら変化を創り出す。こうした現代において求められる行動原理は、孔子が説いた君子としてのあり方と近しいものと捉えられそうです。

論語では、君子としての個人のあり方から発展して、君子と君子とのコミュニケーションに焦点が当てられています。

君子同士が相互作用する状態が和です。和というと静態的なイメージがありますが、孔子は君子間の動態的なコミュニケーションをイメージしています。君子がお互いにフィードバックを与え合い、それを両者が受け容れ、学びを深めていく様が和とされているのです。

その際に、君子と君子とが相互交渉を取る際のコミュニケーションが礼とされています。礼というと堅苦しいものであり、ただただ墨守するものと考えられますが、ルールを守るというイメージでは語られていないことに留意が必要でしょう。

孔子とドラッカーが共通して述べていることは苦手克服はしないということだそうです。ここで「苦手」というものには留保が必要でしょう。

私たちの潜在的な可能性は多様です。安易にこれは苦手だからあれも苦手だからとやりもしないで否定することは危険であり、ドラッカーも孔子も言いたいことではないのでしょう。ある程度経験してみてダメなもの、傾向として好きになれず得意になれない領域はいたずらに克服しようとしないということを言っていると考えると良いのではないでしょうか。


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