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他者を求め、動き続ける

 坂口恭平さんの『躁鬱大学』読んでいる。私は「躁鬱人」であると自覚し、また実際に躁鬱病、双極性障害Ⅱ型なので、この本は私のために存在するといっても決して過言ではない。「躁鬱人」とは別名「日課人」である。つまり、日々刻々と、己自身に向かって「次は何がしたい?」と問い掛け、それに真摯に答え、実践することが大事である。『神田橋語録』(http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf)が我ら日課人のバイブルである。

 私も坂口さんを真似て、神田橋語録で印象に残った言葉を列挙してみたい。

・「こういう人たちが、不自由な状況に対して、「しっかししなければ」と耐えていると、躁鬱の波が大きくなります。体質ですから、季節や天候(季節のサイクルや台風など)、お産や生理、そして人間関係のストレスで悪くなります。特に自分らしさや自分の長所が失われたときが要注意です」

「躁鬱病の人は我慢するのが向きません。「この道一筋」は身に合いません。ずぅーっとではないにしても、「吾が・まま」で行かないと波が出ます。「私さん、私さん、今何がしたいのですか?」と自分の心身に聴いてみながら行動することです。・・・気分屋が基本気質ですから、「気分屋的生き方をすると気分が安定する」という法則を大切にしましょう」

「人に親切にするのが好きで、人に好感をもたれる性格だから、人と接する仕事は向いています。例えば営業、水商売、介護職です。人の世話や面倒をみるのが得意です。・・・受験勉強をするからといって、部活や遊びを減らして生活を狭くするのは逆効果となります。躁鬱病の人は活動性が高いので、勉強するときでも静か過ぎる環境だと雑念が沸いてきます。だから、ながら勉強の方が向いています。」

 我慢が向かないのに、「仕事一筋」とかやろうとするから失敗するのか。確かにその通りである。大学受験の時もそうだ。浪人時代は、端的に言って失敗だったし、大学院修士課程の2年は、大失敗と言って良い。つまり、何か一つの事(志望校合格、論文発表)を集中して取り組むような人間ではないのだろう。研究職や職人気質ではない。そのことをよく自覚することだ。

 だが、いや、だからこそだろうが、そういう人達に憧れと尊敬の念を抱くのだと思う。自分ができないことをやってのけるから、凄いと思うのだろう。

 だが、私は「躁鬱人」である。気分屋的生き方を肯定する人間である。あっちへふらふら、こっちへふらふら。頼りないと思われるかもしれないが、そういう人間なんだと周囲の人に理解してもらえれば、生き易くなるのかもしれない。少なくとも、ちゃんとできない、まとまらない人なんだと理解してもらって、その代わりに、その場その場で完了するような手助けは良くしてくれるからということで、バランスを取りたい。

 そうだ、私は、毎日「その場限りの付き合い」のような関係を切り結びたい。縁を大切にする、というべきか。だが、明日はもう会えないかもしれない。つまり、毎日が今生の別れである。「一日一生」とは、確か偉いお坊さんの言葉だったと思うが、より正確に言えば「一日を、朝起きてから夜眠りにつくまで、その日に出会った他人にできる限り貢献するように生きる」ということだ。ワン・ナイト・ラブならぬ、ワン・デイ・サービスである。

 そうだ、これはいわば、介護の「デイ・ケア」である。私は、日一日、私という「通所」に訪れる要介護者の世話をする。彼・彼女らは私の奉仕を期待して、私の下に訪れるのだ。しんどい時は、私が行く場合もあるだろう。彼らの家に訪れ、必要な世話をその場でしてあげる。

 もし、この仕事がいよいよ難しくなったら、教育のデイ・サービスを始めてみようか。ちょうど、バイクの中型免許を取ろうと思っていたところだ。バイクでどこでも出張サービスをする。自前の教材をバックパックに詰めて、教育的サービスを届けるのだ。旅芸人のような人生。それは、とても面白そうな、やってみたい仕事である。

 自分の身体と精神を移動する空間として機能させる。他者を求めて動き続ける奉仕的身体。それは、換言すれば、水商売的身体なのかもしれない。私は、水商売的に生きたいのだと思う。

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