ザ・クリエイター/創造者
ハリウッド版「ゴジラ」や「ローグ・ワン」のギャレス・エドワーズが監督、音楽はSF・アクション系の大御所的存在のハンス・ジマー、そして、アジア的イメージの大作映画には欠かせないケン・ワタナベが出演。しかも、批判筋の評価も高い。
にもかかわらず、米国でも日本でも興行成績はイマイチとなっている。
ワーナー映画っぽい雰囲気なのにディズニー配給(20世紀スタジオ=旧フォックス)作品ということでプロモーションがうまくできていないというのもあるのだろうか?
今見るべきSF・ファンタジー系の映画って感じで個人的にはおすすめしたい作品なんだけれどね…。
AIやロボットが人間並みかそれ以上の技術や知能を持ち、場合によっては人類を滅亡させる脅威になるという内容の作品は、ほとんどの場合がAIやロボットは外国人移民(国籍を取得しない単純労働者や不法滞在者を含む)のメタファーだと思う。
要は低賃金で働いてくれるのにもかかわらず、ハングリー精神旺盛で優秀な外国人がいれば、ネイティブの仕事は奪われてしまうということだ。欧米にしろ日本にしろネトウヨ的思想がはびこる最大の要因は仕事を奪われたネイティブの怒りだからね。
また、AI自体も既得権益者の仕事を奪うようになってきている。長期間にわたってハリウッドで実施された脚本家や俳優によるストライキは自分たちの仕事がAIによって学習されて、オリジナルである自分たちに対するリスペクトが失われてしまうことへの抗議だった。
本作の世界観を見ると、西側諸国では人類にとって脅威であるAIに対する規制が敷かれているが、アジアではそれに対抗してAIを利用し続けているとなっている。これも、現在の先進国と新興国・途上国の対立の構図そのものだ。
先進国はある製品を生産する際に環境保護やコンプラ、ポリコレに配慮して行えと言うが、先進国はこれまで、現在の基準ではNGだったことをやってきたから今のポジションに到達できた。新興国・途上国は現在の基準でやっていたら、いつまで経っても先進国のレベルには追いつけない。それは不公平だというやつだ。
一方で、AIやロボットを否定する欧米に対する批判的なメッセージも込められているように見えた。それは、主人公が義手・義足を着用して生活している人間という設定になっていることだ。
スポーツ競技の世界ではたびたび、義手や義足、車椅子など障害者が身体の一部として着用したり利用したりしているものの技術について問題視されることがある。
ハイテク技術による義手や義足、車椅子は手足のかわりというレベルを超えて、健常者の手足以上の機能を持っている。それを使って競技するのはフェアではないという論争だ。
おそらく、主人公を義手・義足、しかも、ハイテクなものを着用している者にしたのは、このキャラも半分、AIやロボットのようなものだから、排除される側のAIの気持ちが分かるという理由付けなんだろうと思う。
作中、AIを脅威と感じるのは不気味に見えるからだといったニュアンスのセリフがあったが、これは障害者、特に義手や義足、車椅子を利用している人に対して感じている恐怖感とも通じるものがあると思う。
自分が義手や義足を怖いと思うようになったのは子どもの頃に浅草の雷門で義手でアコーディオンを弾いている人(おそらく傷痍軍人)をよく見かけたからだ。しかも、もの悲しい曲を演奏していたので、なおさら怖く感じるようになったのだろう(バブルの頃になると見かけなくなったが)。
だから、健常者から見ると同じ恐怖の対象である者同士ということで、主人公とAIたちは心を交わすことができたのだと思う。
そして、本作を見ていると欧米人のアジア観がよく分かる。ニューアジアと呼ばれる西側諸国と対立しAIを推進する地域のリーダーはハルンという何人だか分からない名前になってはいるが、演じているのはケン・ワタナベだし、セリフは英語と日本語のチャンポンだ。また、作中に登場する看板などあらゆるところに日本語が出てくる。つまり、欧米人にとっては、G7に入っている日本、G20に入っている中国やインド、韓国も東南アジアと同じ得体の知れない国と思われているということだ。まぁ、好意的な見方をすれば、アジア人はハイテクAI技術と共存するスキルが欧米人より高いという描写なのかも知れないが…。
アジア的描写と言えば、輪廻転生的な考えも提示されていた。そう考えると、ニューアジアの描写は、日本は所詮、得体の知れない国だとか、かつては大国だったかも知れないが、今は落ちぶれた安い観光地だと揶揄するものではないのかもと思ったりもする。
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