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鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)

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#天皇

聖徳太子が日本仏教の開祖になるまで(吉村武彦)

今日紹介するのは、吉村武彦氏の『聖徳太子』です。とても客観的に書かれた一冊だと思ったので、共有してみたいと思います。 学んでみたい方はこちらをどうぞ 本日の説『日本書紀』の段階では厩戸王子は仏教興隆上の歴史的人物ほどの評価はされていなかった。厩戸王子は傑出した仏教理解者であった。厩戸王子の死後、近親者から厩戸王子の神格化が進んでいった。初期の太子信仰が進展したきっかけは730年代(天平年間)だと考えられる。奈良時代後半から、多くの仏教説話集が編集された。『日本霊異記』『三

総持天皇?をご存知でしたか?(一条このみ)

「持統天皇非即位説」は、古田学派の方々の特徴的な論です。言い切ってくださった方が一条このみさんです。個人的に良いと思うところが多かったので、今回は『万葉の虹』をご紹介していきたいと思います。 教えてくれた書籍はこちら本日の説高市皇子=高市天皇=総持天皇は、持統天皇(天武天皇の皇后)へ、すり替えられていた。高市は「総持天皇」であり、持統天皇という天皇はいなかった。 総持天皇とも、高市天皇とも呼ばれている。 根拠(総持天皇について)(天武)死して子の総持立つ。『新唐書』日本

東の天子 人がちがう?

隋の煬帝に送った、有名なフレーズ。しかし、そこにはちがう名前が書かれていた。 学校の歴史教科書は『隋書』倭国伝から大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者日く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝貢せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ』と。其の国書に日く、『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と。帝之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて日く、『蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ』と →西暦607年、倭国の

なんだって?倭国と大和が手を組んだ??

本当ですか?大和王権と北部九州倭国が手を組んだ!?だと? 九州王朝理論とは古田武彦氏が提唱した説で、北部九州の地域に九州王朝があったとする説です。中国の歴史書に出てくる倭国とは、北部九州の連合国家のことであり、近畿のことではないのだと。 一元史観と多元史観王朝は日本書紀によれば一つだけだが、しかし、複数の王朝がかつて存在していたとなります。学校で教えられる日本史は基本的に日本書紀の仏教伝来時代からスタートします。それ以前は中国の歴史書に頼りますので、その時、倭とは日本のこ